第20話 改心
その日の夕食は、重苦しい空気に包まれていた。
道場での一件から帰宅し、部屋着に着替えてダイニングテーブルに並んで座る俺たちの正面には、相変わらず地獄の閻魔大王のような威圧感を放つ厳さんが鎮座している。
今日のメニューは、志乃さんが腕によりをかけた肉じゃがだった。出汁のいい香りが漂っているのに、胃はキュッと縮こまったままだ。
「……久慈浦君」
箸を動かしていた厳さんが、不意に地を這うような低い声で俺を呼んだ。
「は、はい」
「君の父親から聞いた。一時は大変だったらしいが先月から新しい職場で、必死に前を向いて働いているそうだな」
「……ええ。おかげさまで、生活はどうにか落ち着きました」
厳さんは鋭い眼光を俺に向けた。
「ならば、なぜ君は応援団に戻らないんだ?」
「っ……」
昨日の雑談で俺が一年生の頃に応援団にいたことをつい喋っていた。痛いところを突かれ、俺は箸を止めた。隣に座る神楽舞衣も、少しだけ驚いたように俺の横顔を見つめてくる。
「……今更戻ったところで、半年以上のブランクがあります。今の二年生の下について、雑用からやり直すことになりますし」
俺は視線をそらし、努めて冷めた声で言った。
「それに、もう情熱も消えました。親父の会社が倒産して、深夜バイトに追われて、俺がどれだけ声を出したくても、環境一つで全部ぶっ壊されたんです。……頑張ったって、どうせ無駄になるんだって、思い知ったんで」
それが、俺が青春から逃げ出した本音だった。
努力は裏切る。環境が最悪なら、熱意なんてものは一瞬で消し飛ぶ。
「んー……それは、甘えだな」
厳さんの低く、しかし確かな怒りを孕んだ声が響いた。
「君は挫折を環境のせいにして腐るのだな。ならば言っておく。その腐った根性で、娘の足を引っ張るような真似だけはしないでくれよ」
背筋が凍るような冷徹な宣告。俺は息を呑み、反論すらできなかった。
だが、厳さんは深くため息をつくと、少しだけ声のトーンを和らげた。
「……だがな。人は何度でもやり直せる。どんな底辺からでもだ」
「え……」
「それは、他でもない一番近くにいる君のお父様が証明しているじゃないか。自分の会社を潰し、息子に苦労をかけた。それでも歯を食いしばって新しい職場で汗を流している。……少しは、自分の父親を見習いなさい。男なら、一度や二度の挫折で全てを投げ出すんじゃない」
厳さんの不器用だが力強い励ましの言葉が、俺の胸の奥底に真っ直ぐに突き刺さった。
親父は、逃げなかった。
そして隣にいる神楽も、この最悪な呪いの紐という「環境」のせいで絶望的な状況に追い込まれながらも、道場の隅で悔し涙を流しながら、決して歩みを止めようとしていなかった。
環境のせいにして逃げていたのは、俺だけだったのだ。
確かに……このままじゃ、ダメだ。
俺の中で燻っていた火に、油が注がれた気がした。
「どうせ無駄」という諦めの感情が、音を立てて崩れ去っていく。
俺のせいで、こいつの夢を終わらせてたまるか。
絶対に、神楽をインターハイに行かせる。
俺は肉じゃがを口に運びながら、密かに、しかし強烈な覚悟を決めた。
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夕食後、俺と神楽は夜の冷え込む庭に出ていた。
神楽の日課である、弓のシャドー(素引き)に付き合うためだ。
「……っ、やっぱりダメ」
月明かりの下、神楽がもどかしそうに唇を噛む。足が繋がっているため、弓道の基本である足踏みの幅(一足)のスタンスがどうしても取れず、体幹がブレてしまうのだ。
「もう一度……久慈浦君、もう少しだけ右に」
「おい、神楽」
俺はいつもなら文句を言うところだが、今日は違う。
神楽の正面に立ち、彼女の黒ダイヤのような瞳を真っ直ぐに見据えた。常に気怠げにしていた目をしっかりと見開き、かつて応援団で声を枯らしていた頃のような、本気の熱を帯びた瞳で。
「……な、何よ」
俺の突然の変化に、神楽が戸惑ったように一歩引こうとする。だが、足が繋がっているため逃げられない。
「もう、お前の邪魔はしない」
「え……?」
「お前が弓を引くスタンス。その足踏みの幅に……俺も完璧に合わせるように努力するよ」
俺の宣言に、神楽は驚きに目を見開いた。
無気力で冷笑的だった俺の、初めての男らしい本気の言葉。
彼女はしばらく俺の瞳の奥を探るように見つめていたが、やがてその表情から迷いが消え、コクリと力強く頷いた。
「……ええ。あなたを信じるわ」
神楽が再び、的を見据えるように前を向く。
彼女が左足を開いた瞬間、俺も自らの左足を彼女の右足の動きに完全に同調させて踏み込んだ。
応援団の演舞で培った下半身の粘り。俺は膝を微かに曲げ、重心を落として彼女のスタンスをガッチリと支える。
「……いける」
神楽が小さく呟き、ゆっくりと弓を押し開いた。先ほどまでのブレが嘘のように、彼女の美しい姿勢が夜の庭にピタリと決まった。
その時だった。
スッ……。
足首から、フッと微かな圧力が抜ける感覚があった。
「「……え?」」
俺たちは同時に視線を落とす。
あれほどカチカチに固まっていた忌まわしい赤い紐が。
ほんの少しだけ……数センチほど、結び目が緩んでいたのだ。
「う、嘘……緩んでる……!?」
「マジかよ……切ることもできなかったのに」
星野まりもの言っていた仮説が脳裏をよぎる。
『二人が本当に心を通わせることで、紐が少しずつ緩む』
つまり、今の俺たちはお互いを信頼し、本気で心を通わせたという証拠だった。
「…………っ」
「…………っ」
その事実に気付いた瞬間、俺たちは弾かれたように顔を上げ、視線をぶつけ合った。
お互いに相手の存在を強烈に意識してしまい、一気に顔から火が出るほど赤面する。
「な、なんでもないわ! たまたま、物理的に引っ張られたからよ!」
「そ、そうだな! 劣化してきたんじゃねえの!」
俺たちはそっぽを向きながら、ドクドクとうるさい心臓の音をごまかすように叫んだ。




