第19話 悔し涙
葵が的前に戻っていくのと入れ替わるように、道場の奥から恰幅の良い弓道部の顧問が歩み寄ってきた。
「神楽。高梨先生から事情は聞いたよ。……特殊な化学結合で離れられないそうだな」
先生が俺たちの繋がれた足元を見て、重苦しい声で切り出した。
「はい。ご心配をおかけして申し訳ありません」
「正直に言うとな。いくらお前の実力が群を抜いていても、もし大会当日までその状態が続くようなら、安全面や競技規定の観点から、インターハイ出場は難しいかもしれない」
「っ……」
舞衣の顔からスッと血の気が引いた。しかし、彼女は震える両手を強く握り締め、真っ直ぐに顧問の目を見据えた。
「先生、お願いします! 予選までには、必ずこの紐は解いてみせます。だからそれまで……どうか、ここで練習を続けさせてください!」
深く頭を下げる舞衣。その悲痛なまでの嘆願に、顧問の先生は一つ大きなため息をつき、やがて力強く頷いた。
「……わかった。私の方でも大会本部に掛け合って、何か特例が認められないか手を尽くしてみよう。だから神楽、お前も最後まで諦めるなよ」
「はいっ……! ありがとうございます!」
舞衣はパッと顔を輝かせた。
隣で黙って聞いていた俺は、彼女が背負っている『インターハイへの執念』の重さを、改めて肌で感じることとなった。
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道場の隅。神楽は自分の弓を手に取り、素引きの練習を始めようとした。
弓道は、左半身を的に向けて立つ。その最初の動作である「足踏み」は、両足を扇状に開き、自分の身長の半分ほどの幅(一足)にスタンスをとることが基本だという。
神楽は右利きだ。左足を的に向けて開き、右足の位置を決めようとするが、彼女の右足には、紐で俺の左足がガッチリと繋がれている。
「久慈浦君、もう少しだけ右に寄って」
「これ以上は無理だ。紐がピンと張ってる」
神楽が足幅を開こうとするたびに、赤い紐が俺の左足を引っ張り、俺の体勢が崩れる。俺が踏ん張れば、今度は神楽の右足が自由を奪われる。
「くっ……もう一度」
神楽は何度も何度も足踏みの位置を調整しようとした。しかし、どう足掻いても正しいスタンスが取れない。
足場が安定しなければ、当然ながら体幹はブレる。弓を押し開こうとしても、力がうまく伝わらず、姿勢が崩れてしまうのだ。
「……また、ダメね……」
十分、二十分と時間が過ぎていく。
いつもの彼女なら、流れるような美しい所作で弓を引き絞っているはずだ。しかし今の彼女は、ただの一度もまともに弓を構えることすらできていなかった。
俺は彼女のすぐ後ろに立ち、その様子を黙って見つめていた。
諦めろと言ってやろうかと思ったが、彼女の真剣な練習を真横で見ていると口を開くことはできなかった。
神楽の背中が、微かに震えた。
「どうして……っ」
彼女の口から、小さく、掠れた声が漏れた。
俺はハッとして、少し身を乗り出して彼女の横顔を覗き込んだ。
普段は絶対に弱みを見せない、あのストイックで向上心の塊のような彼女が。
俺に背を向けたまま、繋がれた足元を見つめ、ポロポロと大粒の涙をこぼしていたのだ。
悔し涙だった。
自分がどれだけ努力しても、どれだけ執念を燃やしても、この物理的な拘束のせいで、今まで積み上げてきたものが指の隙間からこぼれ落ちていく。その絶望と焦燥が、彼女の心を限界まで追い詰めたのだろう。
その涙を見た瞬間、俺の胸の奥で、何かが激しく軋むような音がした。
『環境のせいにして腐るのをやめたら?』
昨夜、彼女に言われた言葉が脳裏に蘇る。
親父の会社が倒産し、バイト漬けになった俺は、疲労と貧困という「環境」のせいにして、応援団という自分の居場所から逃げ出した。どうせ無駄だと、青春のすべてを放棄した。
だが、目の前にいる彼女は違う。
こんな絶望的な状況に陥っても、まだ足掻こうとしている。インターハイへの夢を、絶対に手放そうとしていない。
それなのに、俺の足が、俺という存在そのものが、彼女の夢を物理的に邪魔しているのだ。
「……っ」
俺は奥歯を強く噛み締めた。
胸が苦しい。何か言葉をかけなければ。だが、気の利いた慰めなど、今の彼女にとっては嫌みにさえ聞こえかねない。
かつて応援団で、誰かのために声を枯らしてエールを送っていた頃の熱が、俺の心の奥底で燻り始めているのを感じた。
でも、今の俺には、彼女を支える術も心構えも何もなかった。
ただ、夕暮れの光が差し込む道場の隅で、悔し涙を流しながら必死に練習を続ける彼女の横顔を、切ない思いで見つめることしかできなかった。
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練習が終わり、俺たちは学校を後にした。
水鏡市の街並みを、燃えるようなオレンジ色の夕焼けが染め上げている。
帰り道、俺たちは一言も言葉を交わさなかった。
いーち、にっ。いーち、にっ。
心の中でリズムを取りながら二人三脚の足音だけが、静かな住宅街に響く。
神楽は俯いたまま、ただ機械的に足を動かしていた。その横顔には、いつもの凛とした強さはなく、深い疲労と絶望の影が落ちている。
綺麗な夕焼けの景色なんて、今の彼女の目には全く入っていないようだ。
俺は、どうすればいい……。
繋がれた足首から伝わってくる、彼女の重み。
昼休みに感じた異性としてのドギマギなんて、今は完全に吹き飛んでいた。
俺の心に渦巻いていたのは、ただ純粋な、彼女に対する申し訳なさと……かつての自分を取り戻したいという、微かな、しかし確かな焦燥感だった。
無言のまま、俺たちは神楽家へと続く長い坂道を上っていった。
長く、苦しい同居生活の二日目が、ゆっくりと暮れようとしていた。




