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第2話 解けない紐

 パンッ、という乾いたピストルの音がグラウンドに鳴り響いた。


「行くわよ!」


 神楽の掛け声とともに、俺たちは同時に一歩を踏み出す。

 二人三脚の基本は、密着して互いの重心を合わせることだ。そのためには、どうしても肩を組むか、腰に腕を回す必要がある。


「ちっ……」


 俺は舌打ちをごまかすように息を吐き、恐る恐る神楽の肩に腕を回した。

 これまで彼女はおろか、女子とまともに触れ合ったことすらない俺にとって、この密着度は異常だった。ジャージ越しに伝わってくる神楽の華奢な肩の感触、彼女の少し高めの体温。さらには、顔を向ければすぐそこに彼女の白い横顔がある。


 周囲の歓声が遠のき、俺の心臓は先ほどとは違う意味でドクドクと激しい警鐘を鳴らしていた。緊張で脇の下に嫌な汗をかくのがわかる。


「ちょっと、もっとしっかり腰を入れて!」

「う、うるせえな! やってるだろ!」


 動揺を隠すように荒っぽく返すが、足並みは最悪だった。

 神楽の右足首と俺の左足首が、あの赤い紐でガッチリと結ばれている。

 神楽は弓道で鍛えられたブレない体幹で前へ進もうとするが、無気力に生きている俺の歩幅とは全く噛み合わない。


「い、ちっ! にっ! ほら、遅れないで!」

「お前がペース早すぎんだよ! もっと歩幅合わせろ!」


 互いの主張がぶつかり合い、足がもつれる。そのたびに俺の腕の中で神楽がバランスを崩し、俺は彼女を庇うように変な姿勢で踏ん張る羽目になった。


 ドサッ!


 結局、トラックの半ばで俺たちは無様にグラウンドの砂に突っ伏した。


「いってぇ……」

「……最悪」


 周囲のペアが次々とゴールしていく中、俺たちは砂まみれになりながら立ち上がり、再び足を引きずるようにして進む。


 結果は言うまでもなく、ダントツのビリだった。


 ゴールラインを越えた瞬間、俺たちは弾かれたように互いの体を離した。


 周囲からはヒソヒソ声が聞こえてくる。

 神楽は砂を払いながら、氷のように冷たい視線を俺に向けた。

 互いに一言も口をきかない、最悪で険悪な雰囲気が漂っていた。


 +++


「……さっさとこれ、解けよ」


 競技が終わるなり、俺は他の生徒の目を避けるように、グラウンドの隅の用具テントの裏へと神楽を促した。

 こんなに密着した状態で目立つ場所にいれば、いらぬ注目を集めるだけだ。なるべく誰にも見つからないように、この忌々しい紐を外してしまいたかった。


「言われなくても、そうするわよ」


 神楽は不機嫌そうに屈み込み、自分の結んだ赤い紐の結び目に指をかける。

 しかし。


「……あれ? おかしいわね」


 神楽の指先が止まった。


「どうした?」

「固い……結び目が、全然動かない」

「貸せ。お前が馬鹿みたいにきつく結ぶからだろ」


 俺も屈み込み、結び目を解こうと爪を立てる。だが、どういうわけか、古い布でできている紐は、まるで鉄のワイヤーのようにカチカチに固まっていた。

 引っ張っても、緩めても、ビクともしない。


「おい、冗談だろ……」

「私、ここまで固く結んでないわ」


 焦りが混じった神楽の声。俺たちは無言で十分ほど格闘したが、紐は一切解ける気配を見せなかった。


「……らちが明かない。先生のところに行くぞ」


 俺の提案に、神楽も渋々頷いた。


 俺たちは不自然に歩幅を合わせながら、担任である高梨たかなしかえで先生を探し出した。


「ええっ!? 紐が解けなくなったぁ!?」


 高梨先生のすっとんきょうな声が響く。彼女は生徒思いで責任感が強い熱血教師だが、予想外のトラブルに直面すると内心パニックになりやすい。


「しーっ! 声が大きいです、先生」

「ご、ごめん。とにかく、保健室に行きましょう!」


 高梨先生に付き添われ、俺たちは保健室へと駆け込んだ。


 保健室の椅子に腰掛けた俺たちの足元を、保健医と高梨先生が覗き込んでいる。


「ハサミで切っちゃおうか。古い備品みたいだし、弁償とか気にしなくていいから」


 保健医がそう言って、引き出しから医療用の大きなハサミを取り出した。


「お願いします」


 神楽がホッとしたように息を吐く。俺も内心、これでこの最悪な密着状態から解放されると安堵していた。

 保健医のハサミの刃が、俺たちの足首を繋ぐ赤い紐に当てられた。


 ジョ。


 鈍い音が響く。しかし、紐は切れていない。


「あれ? ちょっと刃が滑っちゃったかな」


 保健医は首を傾げ、今度は両手でハサミを握り込み、渾身の力を込めて紐を切ろうとした。


 ギチギチギチッ!


 刃と紐が擦れる嫌な音が保健室に響くが、刃物が滑るだけで傷ひとつつかない物理的な異常事態が起きていた。


「嘘でしょ……このハサミ、いつも包帯を切ったり薄いプラスチックも切れるのに」


 保健医の顔に焦りが浮かぶ。次に彼女が持ち出してきたのは、分厚い刃のカッターナイフだった。

 だが、結果は同じだった。

 ナイフを強く押し当てても、刃がスリップするだけで、布の繊維一本すら切れない。ハサミやナイフでも傷ひとつつかない状況に、室内の空気が凍りつく。


「ちょっと、ふざけないでくれよ……!」


 俺は得体の知れない恐怖に駆られ、思わず力任せに紐を両手で掴み、強引に引きちぎろうとした。


「っ――ぁああっ!!」

「きゃあっ!!」


 俺と神楽の悲鳴が同時に重なった。

 無理に紐を外そうとした瞬間、紐ではなく、俺たちの肉体の内側――足首の神経そのものを直接焼かれたような、目の前が真っ白になるほどの激痛が走ったのだ。


「痛ぇっ……! なんだ、これ……っ!」


 俺は足首を押さえて呻き声を上げ、神楽も顔面を蒼白にして震えている。

 刃物を通さず、力任せに解こうとすれば肉体に激痛が走るという絶望感。

 これはただの紐なんかじゃない。得体の知れない未知の事態に直面し、俺と神楽はただ震えながら、パニックに陥るしかなかった。

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