第1話 最悪のペア
高校三年生の四月、水鏡高等学校のグラウンド。
春の陽気が無駄に降り注ぐ中、馬鹿みたいに騒がしい歓声が鼓膜を揺らしている。
俺、久慈浦駿は、グラウンドの隅のパイプ椅子に深く腰掛け、首にかけたワイヤレスイヤホンを耳に押し込んだ。
ノイズキャンセリング機能で、うざったい「青春の喧騒」をシャットアウトさせる。
どうせ何をやったって無駄だ。努力は環境一つであっけなく人を裏切る。それを骨の髄まで思い知らされた俺にとって、体育祭なんてものは、恵まれた連中がマウントを取り合って、自己満足をひけらかすためのお遊戯会でしかない。
適当にやり過ごして、さっさと帰って寝たい。深夜ラジオでも聴きながら孤独な夜を潰す方がマシだ。それが今日の唯一の目標だった。
しかし、神様ってやつは俺が平穏に生きることをとことん許してくれないらしい。
「次は三年生による、男女ペアの二人三脚です! 出場者は所定の場所に集まってください!」
放送委員の無駄に元気な声がグラウンド中に響き渡り、クラスの連中がわやわやと集まりだす。
俺も重い腰を上げ、面倒くささを隠そうともせずに指定されたレーンへと向かった。
「……最悪だ」
思わず口から漏れた言葉は、誰に宛てたものでもない。ただ、目の前に立つ相手があまりにも不運すぎた。
神楽舞衣。
黒髪のロングヘアを体操服姿に合わせて凛としたポニーテールに結い上げ、姿勢はピンと伸びている。端正な和風美人の顔立ちは、学校中で「高嶺の花」として一目置かれている存在だ。県内有数の名門である弓道部に所属し、最後のインターハイ予選での全国出場を目指すストイックな天才。
つまり、俺のような底辺で無気力な人間とは最も対極に位置する、眩しすぎる生き物だ。
ペア決めのくじ引きで、よりにもよってこの妥協を許さない女を引き当ててしまうとは。自分のくじ運の悪さを呪うしかない。
「遅い」
俺が歩み寄るなり、神楽は冷ややかな視線を向けてきた。
「はぁ。わるかったな」
「競技が始まるのよ。少しはやる気を出したらどう?」
「やる気ねえ。二人三脚で一等賞とって、内申点でも上がるなら頑張るけどな。適当にやって怪我無く完走できればいいだろ」
俺が肩を竦めて鼻で笑うと、神楽の整った眉間にわずかな皺が寄った。彼女が俺の不真面目で冷笑的な態度を心の底から嫌悪しているのは、痛いほど伝わってくる。
「……あなたって、本当に変わったわね」
呆れたような、それでいてどこか刺のある声で、神楽がぽつりと呟いた。
「あ?」
「一年の時。あの時みたいな大きな声は、もう出さないの?」
その言葉に、俺は心臓を冷たい手でギュッと掴まれたような感覚に陥った。
一年の時。俺がまだ、応援団の期待の新人として、馬鹿みたいに熱い声を出していた頃。
あの時、たまたま目撃した弓道の大会。全国を目指して的を射抜く彼女の真剣な姿に惹きつけられ、心の片隅で応援したいと思い、無意識に腹の底からエールを送ってしまった記憶が蘇る。
だが、そんなものはもう遠い過去の話だ。親父の会社が倒産し、生活費と学費を稼ぐための深夜バイトに追われ、心も体もボロボロになって応援団から逃げ出した俺には、もう関係のないことだ。
「なんの話だか。昔のことなんて忘れたね」
俺は努めて平坦な声で返し、顔を背けた。
神楽はそれ以上何も言わなかったが、その眼差しには明らかな失望の色が混じっていた。
気まずい沈黙が流れる中、運営の生徒が古い備品箱から出してきたらしい赤い布紐を持って、俺たちの前にやってきた。
「それじゃ、足首結びますねー」
適当に巻かれそうになったその時、神楽が鋭い声で制した。
「待って。私がやるわ」
「え? あ、はい」
戸惑う生徒から赤い紐を受け取ると、神楽はスッと俺の足元に屈み込んだ。
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「おい、何してんだよ。そんなもん適当でいいだろ」
俺は嫌悪感を丸出しにして文句を言った。
「適当になんてやらない。出るからには最後まで本気でやるのが当然よ」
神楽は俺の言葉を完全に無視し、体操服のズボンの裾を少し捲り上げた俺の左足首と、彼女の右足首を真っ直ぐに揃えさせた。
「ちょっと動かないで」
彼女の顔が、俺の膝下あたりまで近づく。
ふわりと、汗の匂いとは違う、何か凛としたシャンプーのような香りが鼻を掠めた。
神楽は真剣な表情で、古びた赤い紐を丁寧に、そしてきつく結び直していく。
その時、彼女の右手が俺の足首に触れた。
ヒヤリとした感触。
そして、不意に見えた彼女の手のひらや指先には、無数の硬いマメができているのを見つけた。
弓を何千回、何万回と引き絞ってきたであろう、努力の結晶。
彼女のストイックさは、決して恵まれた才能なんかじゃない。どれだけ苦しくても歩みを止めないという、圧倒的な泥臭い執念の証だ。
その手が、俺の足首にしっかりと紐を巻きつける。
「……きつい。血が止まるって」
「これくらいしっかり結ばないと、走っている途中で緩むわ。私の歩幅に合わせてちょうだいね」
きつく結び終えた神楽が顔を上げると、その真剣な顔が至近距離に迫った。
澄んだ黒曜石のような瞳。微かに汗ばんだ白い肌。
あまりの近さに、俺は思わず息を呑んだ。
心臓が、柄にもなくドクリと跳ねる。
「な、なんだよ」
「文句を言わずに、しっかりついてきて」
神楽はスッと立ち上がり、競技用のレーンを見据えた。
「位置について!」
ピストルを持った教師の声がグラウンドに響く。
俺の左足と神楽の右足は、まるで一つの生き物のように、赤い紐でガッチリと固定されていた。
この時、俺はまだ知る由もなかった。
この忌まわしい赤い紐が、ただの体育祭の用具などではなく、俺たちの運命を最悪の形で縛り付けることになる恐ろしい「呪い」の紐であることを。




