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第15話 多目的トイレ

 一時間目の授業が終わり、休み時間のチャイムが鳴った。

 周囲の好奇の視線にも少し慣れてきた頃、俺の体に本日最大の、そして最も絶望的なピンチが訪れた。


 ……やばい。トイレ行きたい。


 朝食の時にブラックコーヒーを一気飲みしたのが完全に仇となった。膀胱がジワジワと悲鳴を上げ始めている。

 だが、隣に座る神楽を誘って「一緒にトイレに行ってくれ」などと、どうして言えるだろうか。相手は学校一の高嶺の花であり、昨日と今朝、家でのトイレ攻防戦で互いの尊厳をゴリゴリと削り合ったばかりだ。


 俺は必死に尿意を誤魔化そうと、脂汗を流しながら小刻みに貧乏ゆすりを始めた。

 すると、その不自然な振動に気付いた神楽が、不審そうに顔を覗き込んできた。


「……あなた、さっきから貧乏ゆすりがうるさいんだけど。どうしたの?」

「い、いや……なんでもない」

「嘘言わないで。顔が真っ青よ」

「だからなんでもねえって……っ!」


 俺が口ごもっていると、教卓のプリントを整理していた高梨先生が、俺のただならぬ様子に気付いて足早に近づいてきた。

「久慈浦君、どうしたの? 具合でも悪いの?」

「先生……あの、その……」

 俺は高梨先生にだけ聞こえるような極小の声で、限界が近いことを告げた。


「ええっ!? 家でして、もう!?」


 高梨先生がすっとんきょうな声を上げ、クラスの視線が再びこちらに集まりかける。

「しーっ! 声がデカいですってば!」

「ご、ごめんなさい! 神楽さん、緊急事態よ。久慈浦君が……その、お花摘みに行きたいらしくて」

「お花摘み……? あ、そういう……っ!」

 意味を理解した神楽の顔が、一瞬にして嫌悪感に満ちた。


「む、無理よ! 学校でそんなの、絶対に変な噂になるわ!」

「俺だって我慢してんだよ! でも限界なんだ、膀胱が破裂する!」


 高梨先生は焦った様子で周囲を見渡し、パンッと手を叩いた。

「わかったわ! 一階の奥にある多目的トイレを使いなさい! あそこなら広くて防音もしっかりしてるし、今は誰もいないはずよ!」

「……わかりました。行くぞ、神楽」

「ちょ、嫌ぁ……誰かに見られたらどうするのよ……」

 泣きそうになる神楽の手を引き、俺たちは二人三脚の要領で教室を飛び出した。


 一階の奥、普段はあまり人が来ない廊下の突き当たりにある多目的トイレへと、俺は嫌がる神楽の手を引いて滑り込んだ。

 周りに生徒がいないことを確認してから重いスライドドアを閉め、鍵をガチャリと掛ける。

 広い個室の中とはいえ、男女が密室で一緒に入るという事実に、俺も神楽も心臓が口から飛び出そうなくらいに緊張していた。


「……絶対、絶対に見ないでくれよな」


 神楽はドアのすぐ内側の壁に向かって立ち、両手で耳を塞いで目を固く閉じた。

「言われなくても見ないわよ……」


 俺が便器に向かってズボンのスナップボタンに手を掛けた、その瞬間だった。


 ――ガチャガチャッ!


「あれ? 多目的トイレ、鍵閉まってんな。誰か入ってんのか?」


 ドアの外から、クラスメイトの男子たちの声が聞こえてきた。俺たちの教室から様子を見に来たのか、それとも偶然通りかかったのか。


「おい、下の隙間から足が四本見えるぞ。……もしかして、どこぞのカップルじゃねえのか?」

「マジで!? こんな密室で二人きりって、ヤバくね?」


 外からの声に、神楽がビクッと肩を震わせ、俺にすがりつくように後ずさってきた。


「ど、どうしよう……ばれちゃう……っ!」


 神楽の目には涙が浮かんでいる。こんなところで男女一緒に入っていると知れ渡れば噂話のネタにされ、彼女の高嶺の花としてのプライドはズタズタになる。


「落ち着け、音を立てるな」


 俺は神楽の肩を抱き寄せ、唇に指を当てて極小の囁き声で指示した。

 密着した状態。彼女のシャンプーの香りと、極度の緊張からくる速い鼓動が、俺の胸に直接伝わってくる。


「おーい、誰だー! 入ってんだろー?」

 外の男子がドアをバンバンと叩き始めた。万事休すかと思われた、その時だった。


「こらーっ! あなたたち、そこで何をしているの!」


 廊下に響き渡る高梨先生の怒声。どうやら俺たちを心配して追ってきてくれたらしい。


「あ、先生。いや、この中に誰かがいるっぽくて……」

「馬鹿なこと言わないの!この中は今、先生が……文化祭の出し物の会議で使っているのよ! 機密事項だから邪魔しちゃダメ!」


「は? トイレで出し物の会議? 意味わかんねえんだけど」

「いいからあっちに行きなさい! ほら、急いで!」


 高梨先生の強引すぎるフォロー(というより物理的な追い出し)により、男子たちの足音は不満げな声を残しながら遠ざかっていった。

「……はぁぁ……」

 ドアの外が完全に静かになったのを確認し、俺たちは同時にその場へへたり込んだ。


「……助かった」

「もう、生きた心地がしなかったわ……」


 便器の前の冷たい床に座り込み、荒い息を繰り返す。

 足元を見ると、俺の足も、神楽の足も、極限の緊張からガクガクと小刻みに震えていた。

 しかし、不思議なことに、あれほど毛嫌いし合っていたはずの俺たちの間に、先ほどまでの刺々しい空気はなくなっていた。


 ピンチを共有し、息を殺して密室で息を潜めた数分間。

 それはまるで、誰にも言えない秘密を共有した「共犯者」のような、奇妙な連帯感だった。


「……お前、意外とビビりだな」

 俺が少し意地悪く笑うと、神楽は顔を赤くして睨み返してきた。

「なっ……あなただって、肩が震えてたじゃない!」

「震えてねえよ」

「震えてたわよ! 瞳孔だって開いてたし!」


 互いに強がりを言い合いながらも、その声には敵意はなく、むしろ安堵の響きが混じっていた。

 どうせ何をやったって無駄だ。そう思って他者と関わることを避けてきた俺。

 妥協を許さず、孤高を貫いてきた神楽。

 そんな二人が、この忌まわしい赤い紐のせいで強制的に結びつけられ、最悪の事態を共に乗り越えようとしている。


「……とりあえず、用は足させてもらうぞ。限界超えてるから」

「……早くして。一秒でも早くここから出たいわ」

 神楽は再び壁に向かって耳を塞ぎ、目を固く閉じた。


 多目的トイレから無事に脱出した後、外で見張りをしていてくれた高梨先生に感謝を言ってから俺たちは再び二人三脚で教室へと戻る。

 歩幅を合わせる足取りは、朝よりもほんの少しだけ、スムーズになっていた気がした。

 俺たちの長い長い同居生活と学校生活は、まだ始まったばかりだ。呪いの紐が解ける日は、まだ遥か遠くに感じられた。

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