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第12話 朝食と歯磨き

 神楽家での同居生活、二日目の朝。

 俺と神楽舞衣は、昨夜から今朝にかけての地獄のようなゼロ距離ハプニングの気まずさを引きずったまま、ダイニングテーブルの前に横並びで座っていた。


 テーブルの上には、志乃さんが用意してくれた二種類の朝食が並べられている。

 俺の前には、こんがりと焼けた厚切りのトーストと、スクランブルエッグ、そしてマグカップに注がれたブラックコーヒー。いかにも手早く済ませられそうなメニューだ。

 一方、神楽の前には、炊き立てのツヤツヤとした白米、小鉢に盛られた納豆、豆腐とワカメの湯気が立つ味噌汁、それに綺麗な焦げ目のついた焼き鮭と出汁巻き玉子という、旅館の朝食顔負けの完璧な和食御膳が鎮座していた。


 昨日の夕食時に雑談で話していた俺の生活スタイルを、しっかり聞いていてくれていた志乃さんが、再現してくれたやさしさに感謝しかない。


「「いただきます」」


 俺はトーストを半分に千切り、スクランブルエッグを乱暴に乗せて大きな口でかぶりついた。親父の会社が倒産して以来、飯なんてものは空腹を満たすための単なる作業でしかない。味わうことよりも、いかに早く胃袋へ詰め込んで次の行動に移るかという効率だけを重視してきた。

 三分もかからずにトーストを飲み込み、コーヒーで流し込む。


「ふぅ……ごちそうさん」

 俺が手を合わせると、隣から小さなため息が聞こえた。


「あなた、食事というものを何だと思っているの?」

 神楽は箸を休め、呆れたような冷ややかな視線を俺に向けてきた。

「何って、エネルギー補給だろ。それよりお前、まだそんなに残ってんのかよ。遅くねぇか?」


 神楽は美しい姿勢をピシッと保ったまま、焼き鮭を箸で器用にほぐしている最中だった。彼女は一口食べるごとに箸を置き、目を閉じてゆっくりと咀嚼そしゃく回数を数えているかのように味わっている。弓道の所作に通じるような、無駄のない、しかし絶望的に時間のかかる食べ方だった。


「食事はよく噛んで、命の恵みに感謝しながらいただくのが基本よ。あなたみたいに胃に流し込むような野蛮な食べ方、見ているだけで消化不良起こしそうだわ」


「野蛮で結構。だけどな、俺たちの足は忌まわしい赤い紐で繋がってんだよ。俺はお前が食べ終わるまで、ここから一歩も動けねぇんだ」


「だったら最初から私に合わせてゆっくり食べればよかったでしょ。協調性がないのね」

「朝っぱらからそんな悠長にしてられるかよ。早く登校の準備しねえと遅刻するだろ!」

「急いで食事を楽しまない方が、よっぽど非効率的よ」


 平行線のまま、神楽は再び納豆を小鉢の中で丁寧に五十回ほどかき混ぜ始めた。その優雅な動作を見つめながら、俺は朝からゴリゴリと精神力を削られるのを感じていた。

 結局、彼女が味噌汁を最後の一滴まで上品に飲み干すまで、俺は隣で十五分間も無為な時間を過ごす羽目になった。


 +++


 朝食という名の苦行を終え、俺たちは二人三脚のすり足で洗面所へと向かった。

 洗面台の大きな鏡の前に、横並びで立つ。

 鏡の中には、身長百七十五センチの俺と、百六十二センチの神楽が並んで映っていた。約十三センチの身長差。普段ならどうということはないが、この異常な密着状態では話が変わってくる。


 俺は左利き、神楽は右利きだ。

 それぞれの手に歯ブラシを持ち、同時にシャカシャカと歯を磨き始めた。

 俺が左腕を前後に動かすたび、その肘がどうしても神楽の方へと張り出してしまう。


「ちょっと、私の目の前で肘を振られると気が散るんだけど」


 神楽が歯ブラシを口に突っ込んだまま、モゴモゴ声で抗議してきた。

 鏡を見ると、確かに俺の左肘がちょうど彼女の目の高さの辺りを、ワイパーのように左右に横切っていた。


「俺は左利きなんだから仕方ねぇだろ。文句があるならお前が半歩下がれ」

「私が下がったら、鏡が見えなくなって磨き残しが出るじゃない」


 神楽も負けじと、右手で持った歯ブラシを勢いよく動かし始める。

 すると今度は、彼女の右肘がリズミカルに俺の左わき腹をツンツンと小突いてきた。


「っ……ひゃっ、ははっ……!」

 俺は思わず変な声を上げて身をよじった。


「な、何よ気持ち悪い」

「お前っ……肘が、わき腹に当たってくすぐったいんだよ! やめろ!」

「わ、わざとじゃないわよ! あなたが変に身を捩るから当たるんでしょ!」


 洗面所という狭い空間で、紐で繋がれた足元は身動きが取れない。俺たちは上半身だけで、肘を避け合いながら奇妙なダンスを踊るような状態に陥った。


「あーもう、邪魔くせえな! 俺が上を向いて磨くから、お前は体を左にねじれ!」

「どうして私がねじらなきゃいけないのよ! あなたが当たらない方向を探しなさいよ!」


 朝の爽やかな歯磨きの時間は、互いの肘の位置で揉める見苦しい小競り合いへと変貌した。口の中にミントの香りが広がっているのに、気分はちっとも爽快にならない。

 今日も今日とて、この女とは絶対に息が合わない。それを痛感させられる朝だった。

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