3. 誰も覚えてなければ意味がない
鹿がこれでは終わらないと踏んだのか、今度は光で一つの槍を作り出した。鹿は男に迫り、光の槍は無作為に男目掛けて四方八方から飛び出す。流石にそれはずるいだろうと男は思った。男は魔法のセンスが皆無のため、魔法なぞ使ったことがなかった。
男は両手で剣を構えて角の衝撃に防戦していたが、真横から槍が飛んできたので咄嗟に左手で槍を無理やりガントレットで掴んだ。槍の熱に思わず吐息が漏れる。身体の内側が沸騰する。触れはするが、このままでは皮膚まで熱が貫通しそうだった。しかし、手放せば問答無用で鎧を貫通しかねない勢いが槍にはまだあった。それほど熱い光だった。
好機と睨んだか、鹿は後退し、光の槍を複数出現させると、男の身体に槍の先端を向け、一斉に指示を出した。眩い光が辺りを白く染め上げた。男の身体の節々から血と人の皮膚が焦げた臭いがする。
これ以上が来たら捌ききれない。そしてこれ以上は確実に来る。今までの戦闘経験で培ったセンスが男にそう囁いていた。
何度か死地に追いやられた経験がある男は、死を覚悟するときに限って、普段の冷静さを欠いて一つの信条に囚われることが多かった。死ぬなら相手を驚かせてから死ぬ。相手の最大の損害になりそうなことを全力で全うする。家族の縁は当の昔に辿れなくなり、傭兵集団の荒くれじみた奴らにはどうも染まり切れない。死んだら、男のことなど忘れてくれる連中だらけだ。だったら、敵に己を覚えてもらうくらいしか、自分の生きた証拠を残す方法が思いつかない。
男は、鹿の間合いに飛び込んだ。防戦一方だった男の行動に、鹿はたじろぐように瞳を揺らす。男は次の瞬間、捨て身の状態で大剣を振りかぶり、右の角に刃を振り下ろした。男の全体重が乗った重い一撃だった。鹿はその衝撃で倒れそうな身体を右足で踏ん張ったが、煌々と輝く角が明滅を始めた。
「殺しやしねえから安心しな。」
聖獣の命を奪うなんて大層なことをするつもりは微塵もなかった。自分の命と聖獣の命を天秤にかけたら、聖獣の方が絶対に重いはずである。聖獣は大陸全土の精霊の指揮権を持つと言われている。大陸中の混乱に責任を取れないので、男は防戦しかしなかったのである。相討ちであれば男には造作もないことだった。
鹿は悲鳴を上げ、首を横に振り、男をいなそうとした。男は一撃で角をへし折れないと感じるや否や、望み通り一度大剣を角から離してやった後、何度も角に攻撃を打ち込み始める。鍛冶屋が剣を打つように、火花が散る。男の大剣が特別製だったからか、それとも男の技量によるものか、その両方か。角には小さくヒビが入り始めていた。
「————————ッ!」
鹿が弱々しく嘶き、眠っていた動物たちが目を覚ます。右の角が地面に落ちて輝きを失った。男はやり遂げたことに喉を鳴らした。聖獣の角をへし折る人間はそんなにいないだろう。鹿は恨みのこもった瞳で男を見据えた。男は逃げる体力もないからと大剣を構えるのを止めて自身の防御のことなど放り出していた。ただ、この鹿は俺を当分忘れはしない、ということに歓喜していた。
鹿はそんな男の考えは読めないまま、残った左の角で男と同様に捨て身の一撃を放った。角は鎧を貫通し、男の右腹に大きな穴を空けた。
男は大きくえずくと、腹から血を流して仰向けに倒れた。




