22. 私の洞の中に、貴方が置かれた
そして、シェルマの三回目の脱走が数日後に始まった。
二回目同様、シェルマは寝室を抜け出し、ガーディットはシェルマの後を追った。
ガーディットは二回目の追跡後、自分は眠りの魔法で眠らされたということを理解した。自分が魔法使いに使われたことはなかったが、同僚が以前眠れないから寝る前に医療行為としてかけてもらったと言っていたことを思い出す。
森の特性なのか、別の要因があるのかは分からないが、一先ず、それの対策が必要だった。魔法の詳細な効果は、眠りを促進させる植物や生物などの成分を空中に溶け込ませるというものである。それを対象が体内に取り込むことで、眠ってしまう事態を引き起こす。魔法に耐性がある者や、眠りをはじく効果のある装備を身に付けていれば防ぎやすいが、あいにくガーディットは前者の耐性は皆無、後者は鎧が壊れたせいで使えない手である。
手持ちの中で無事だった、顔が割れて困るときのために所持していたマスクを口元に合わせ、紐を後ろ手で結び取りつけた。多少は空気を通さないため、気休めかもしれないが対策としては十分だった。
こうしてガーディットは、三度目の尾行を開始した。息は止めようと思えば二○分は耐えられる。マスクが使い物にならなければより肉体的な手段をもって、追跡を続行するつもりだった。
シェルマはシェルマで、前回の反省を生かし、自分の周囲に眠りの魔法を使うようにした。ガーディットが獣に襲われるのは避けたかったし、眠って倒れてくれたら追跡されているか分かるためである。
森の中を進むこと、三○分。幸いガーディットのマスクは役に立ち、眠ることはなかった。両者の根競べにおいて、その勝負はガーディットが勝者となった。ただ、どちらが相手を守ったかを基準にすると、結果的にシェルマに軍配が上がる。獣たちは眠気に襲われ、森は普段より静まり返っていった。
シェルマは目的地を決めて移動していた。開けた場所に出る。目前には他の木に比べると異常に横に広がった大木があった。シェルマの秘密基地のような役割を持つ、樹齢千年以上と推定される木である。
大木の周辺には木々が少なかった。地下の領域のほとんどを大木の根が占領しているためである。そのため、空を見上げると星々の輝きがよく見えた。
シェルマはとうとうガーディットを撒いたと思って、大木に近づく。眠りの魔法は随分前に解いていた。大木の下には巨大な洞がある。その中に丸まって何も考えずに夜空を眺めて過ごすのが、少女にとって安寧に近しいものを感じられる時間だった。
だから、洞に入り、夜空が見えるよう振り返って丸まろうとしたとき、ガーディットが両腕を組んですぐ傍まで来ていたことに、漸く気づいたのだった。
*
夜の冷気が辺りを包む。洞の影で表情が見えづらいシェルマとは対照的に、ガーディットの表情は月光で良く見えた。
シェルマから見て、幸いガーディットは怒っているように見えなかった。てっきり、追いつかれたら一番に叱られると思っていた。諦めずに最後まで追跡されるのも意外だった。少女はそれらにただ戸惑っていた。不安も緊張も少女にありはしない。真っすぐに、目の前の男を見つめる。どうして、と。
ガーディットは、初めにかける言葉については全くと言っていいほど考えていなかった。怒ってはいなかった。叱るのも何か違う気がしていた。叱るならムタに任せた方がいいだろう。俺はこいつの親ではない。
だから、どちらかが口を開かなければいけない状況で、理由を問うでもなく、追いついた実感を伴う言葉を出すわけでもない。ガーディットは、当たり前にすればいいと思ったことを口にした。
「眠れなくて出かけたいなら、起こして誘えばいいだろう。」
少女は、不意を突かれたようで、頭の中で贈られた言葉を咀嚼して少し間を開けてから、無機質な声を口から発した。
「貴方は、私に起こされても構わないのですか。」
「毎晩はごめんだが、三日に一度の頻度なら考えてやってもいい。」
あまりにも普通のことのように男が言うので、少女はこの人間のことがますます分からなくなった。おかしい。率直に言って、どうかしている。確かに男は、少女の目付け役だったが、自分たちの間にはそこまで労力を費やすほどの情はないはずだ。何より、それをわざわざ言うために追いかけてきたというのが、信じられなかった。
「怪我、まだ完全に治ってないでしょう。」
「ほとんど治ってる。誰かさんたちのおかげでな。」
「勘違いにして、追いかけないことも出来たでしょう。」
「俺はそうしなかった。俺がそんなに薄情に見えるのか。」
「貴方は、出会った時から、良い人に見えます。」
「善人のつもりはないが、そう思うなら好きにしな。」
「……何故。」
無意味なことを、と言いかけて少女は目を伏せた。客観的に見たら、ここまでするかは別として、幼子がふらりと消えれば気遣う気が起きるのはおかしいことではない。見た目だけ見れば、少女はただの子どもなのだ。本来は「それ」と言われた方が適当な人でなしの肉塊だとしても、誰もその本質を分かるはずがなかった。
「好奇心だよ。抜け出す理由を知りたい。どこに向かっているのか知りたい。何より毎度撒かれたら躍起になる。お前だって確信出来はしても、昼間に聞いたらはぐらかすだろうからな。俺がただ、珍しく負けず嫌いに諦めなかっただけだ。」
真っ直ぐに言えば心配だったに尽きる。問題は、素直に言って目の前の少女が聞き入れるかどうかである。ここまで御託を並べる可愛げのない子どもは、心配だと言われても聞き流すに決まっている。少なくとも自分が同じ立場であればそうなる。男は、子どもの頃の自分と少女を重ねて、言われても嫌ではなさそうな言葉を並べた。
少女は、納得出来なかったが、こうも真正面から攻められては逃げ場がなかった。
「変な人。」
男に聞こえるか聞こえないかくらいの音で、少女の口からぽつりと声が漏れた。
はぁ、と大きなため息をわざとついて、シェルマは予定通りに洞の中で小さく膝を丸めて座った。
「入っていいですよ。自分の物でもありませんから。」
シェルマの声の調子は快活なものに戻っていた。ただ、演技らしい誇張は抑えた。
ガーディットは、漸くこの追いかけっこが終わりを迎えたことに安堵し、少女のお気に入りらしい洞の中で横になった。
*
白い光が転々と夜空に舞っている。
巨大な木の洞は、人一人が生活できる程度に広々としていた。
「良いところだな。」
シェルマは良いと思って使ってなかったら、それが普通の感覚なのかと考えながら「そうですね。」と答えた。
「抜け出す理由ですか。」
「あれは、言葉の綾だ。言いたくないなら聞き出すつもりはないからな。」
「大した理由ではありませんから良いですよ。それに、負けましたから。」
ガーディットは、本当に聞くつもりがなかったのだが、このシェルマの律儀なところを面白いと感じてしまったので、幸運くらいに思って聞くことにした。当のシェルマは、ただ単に、以前のガーディットの行動を真似て、勝者に報酬を渡そうとしているだけである。
「ここは、時間が止まったように見えるから、トランにいるより、良いと思うときがあるんです。」
「そりゃ、どうして。」
「トランはみんなお年寄りばかりでしょう。人は夜中に、死んだように眠るから、目が覚めているとき、村に私しかいない気分になるんです。人の生活感がない場所は、余計なことを考えずに済むから、身体が勝手に外に向かって、森へよく行くようになりました。」
「気持ちは、分からなくはないが、バレたらどうするつもりだった。昼間はともかく夜中だぞ。」
「バレなければ、ないのと同じでしょう。」
シェルマがきっぱりと言い切ったので、これは品行方正のフリをしただけの自由人だったのかとガーディットは少女への評価を改めた。
「お前は大馬鹿だ。意味もなく他人を心配させるようなことはするものじゃないんだ。例え、絶対に知られるようなことがなくてもな。」
心配するようなことには絶対になれないからしているとシェルマは反論したかったが、言うわけにはいかなかったので沈黙した。それに、ガーディットの最後の一言が何故か耳に馴染んだ。例え一人になっても、自分を不幸にしないための絶対的な基準があるとしたら、こういうものなのだろうとシェルマは思った。もっとも、ガーディットは自分を棚に上げているので、口では説教を言いつつ、その基準を守らずに生きていた。ガーディットは、子どもが不幸にならないための方便が咄嗟に出る男だった。
「心配してくれたんですか?」
「お前、そんなこともわからないのか。」
ガーディットは、誤魔化していたところをシェルマが本当に分かっていなかったことに心底呆れた。これはムタも苦労しているに違いないと、少女の保護者に同情した。
「ガーディットさん、心の砕き方、考えた方がいいですよ。赤の他人なんですから、見て見ぬふりをすればいいのに。身体がいくつあっても足りませんよ、その生き方は。」
シェルマはシェルマで、ガーディットの考え方があまりにも信じがたかったので、わざと言わないでおいたことを言ってしまった。ズレている、と感じたのだ。心配までは分かるが、その感情を行動にしたときの出力が他人には真似できないほど大袈裟なのだ。
「赤の他人とか生まれとか関係ないよ。少なくとも俺はそんなに薄情じゃない。」
「夜の森は危ないでしょう。」
「俺にとっては危なくない。本当のところだ。命が危なかったら俺も流石に考える。」
ガーディットとしては、出来てしまうからしているというだけなのだ。そんなに捻くれた見方をしないでほしいのが本音である。実際、二回目の夜、シェルマが助けなくても狼を一掃出来てしまえた、というのはここだけの話である。
シェルマは、この男は、いつか人に命を差し出して死んでしまうのではないかと思った。自分の命に対して、いい加減にもほどがある。折角きちんと人間なのだから、自己保身に走ってほしい。
だから、少しだけ意地悪な質問をしてしまった。
「考えた末に、置いて逃げた方がいいときは?」
「逃げる。何も残らないよりはマシだからな。」
間髪入れずに男が答えたので、シェルマは微笑んだ。
「それなら、いいですね。」
意味もなく、理由もなく、赤の他人のために命を投げ出さない。漸く、シェルマは、男にとって夜の森が本当に危険ではないと理解した。逃げる選択肢が残っているなら、この人間は、余力があるので人に善行をする善人なのだ。ただ、変な人という評価は変えられなかった。少女は追いつかれたことに対して、言語化出来ないものを抱えていたが、それに気づくことはどうしても出来なかった。
「お前、森が危ないとか言ってるけどな。お前にだけは言われたくない。この森、妙だろう色々と。」
「妙ではありません。迷ったと思ったら村に戻っていた。獣に遭遇しても、無事に事が済んだ。こうした現象はすべてこの森の性質です。一説には聖獣の加護と言われています。この恩恵は、原則としてトランの者にしか発揮されません。
村人には親切に、外部の者は、選ばれた人しか正しい道を進めない。基準は知りません。少なくとも、村人が獣に襲われて怪我をした話も、道に迷って戻れなくなった話も、私は聞いたことがありません。」
ガーディットは、眠らされて寝室に連れ戻されたことに対して言ったのだが、シェルマは自分がやったと白状する訳にはいかなかったので、全ての責任を聖獣エトワに押し付けた。ほとんど真実なのだから、問題ないはずである。
「気付いたら眠らされている、なんてこともあるのか。」
「私の場合はありません。ただ、道行く獣が眠っていることはあります。ガーディットさんは、外側の、選ばれてない側の人間なので、扱いが異なるのかもしれません。」
「聖獣か。生き物としての格が違うなら、何でもできるか。」
二人はしばらく、何も話さずに空を眺めたり、かと思えばどちらかが不意に口を開いて話をしたり、そうして時間を潰していた。
夜明け前、帰らないと言い訳も立たないので一先ずトランへ帰ることにした。立ち上がる前に、シェルマが口を開く。
「ガーディットさんは、本当に、起こしても良い人なのですか。」
「良いって言っただろう。」
「また、付き合ってくれますか。」
「あぁ、勿論。」
心の距離が縮まったと、互いに思ってはいなかった。
ただ、この一件で、少女が一人で夜を過ごす時間は減るようになった。最短でも三日が経ったら、ガーディットに約束を取り付けて、深夜になったら二人で過ごした。少女の孤独は変わらなかったが、空虚な心の中に、何かが確実に増えていた。それを言葉にすることは、残念ながら少女には叶わなかった。




