14. 聖域、魔法、盗られた金貨
「着きましたよ。」
到着した場所では、敬虔な信徒であれば感嘆の声を漏らし、偶然訪れた旅人が理想郷の一端と間違えてもおかしくはない光景が広がっていた。
光に満ちた、のどかで清廉とした森の聖域。神話の一節にある、神の国に近いとされる聖獣の居住まい。造られた秘密の光の花園。生えている植物は薄っすらと光を放ち、そこが誰の所有物なのかを明確に知らせるようであった。
「あなたたちは驚けないのでしたね。司祭になりたいあなた。感想はありますか?」
「そう、ですね。」
聖域を見た瞬間、帰りたい、という感覚にシェルマは襲われた。トランではない、どこか別の場所。聖域に似た場所に身体が引っ張られてしまうような実感があった。身体に刻まれた遠い遠い記憶、何かの命令によって強制的にそう思わされている気がした。シェルマは、その感覚にひどく困ってしまっていた。
「居心地は、良さそうですね。」
「魔力が満ちた場所ですからね。神々が地上におわした頃の空気も、ここでは微かに存在していますから、あなたが心地よさを感じても不思議ではありません。」
シェルマはその言葉の意味を聞こうとしたが、「さぁ。」と聖獣に遮られてしまった。第一の目的は服を直すことである。エトワはシェルマの額に鼻でキスをする。周囲には光の粒が浮遊する。目に見えない精霊たちが踊っているのを粒の流れで感じる。光が形を成して糸となり、シェルマの服を縫い始める。その脇で光の粒が弾けてシェルマの汚れを流していく。僅かな時間でシェルマは村から出たときより綺麗な状態に戻された。
「植物、土に由来しそうな魔法ですが、光の系統でも出来るのですか?」
「いいえ、少しだけ強引な方法を取ったのです。光の精霊に、わたしの植物と衣類への造詣から空想を伝達して、再現させたのです。」
「土の精霊ではなく?」
魔法というのは、この世界で起こりえる事象を再現するための手法である。火をつけ、水を出し、土を掘り、風を起こし、光を灯す。この世界の魔法は、五つの属性「火・水・土・風・光」に分類される。
人間は空想によって魔法を行使することはできない。決まった呪文を唱え、世界に漂っている精霊がその願いを聞き入れることで、決まった魔法を再現しているだけなのである。
また、どんな魔法でも精霊がその願いを承諾するわけではない。現時点の術者の力量、もしくは才能、契約している神々の種類・属性によってすべては変化する。
例えば水の神としか契約していないのに、火を起こすという話は世迷言と一蹴される。そのため、シェルマは植物と縁が深い土に由来する魔法だと考えたのだが、光が糸に変わったのでどうしたことか、となったのである。
「魔法に五つの属性があるように、精霊も五つに分かれていますから、光の精霊への命令では本来、服を作るのは不可能です。物を作ることすら本来厳しいところではありますが。」
「それでは、どうやって不可能を可能にしたのですか?」
「魔法と同じです。精霊にお願い事をしたのです。精霊の本来の力は、願いを叶える力なのです。ないものをあるものにする。誰かの理想を現実にする。そうしたエネルギーを内包した存在。それが精霊です。
魔法自体も、本来は願いを形にした結果生まれた産物なのですが、願い事に制約がないと世界が滅びかねないので、呪文という決まり事によって力を抑制しているのです。人間はあまりにも自由な生き物ですので、余計に縛る必要があったといえばいいでしょうか。
私たちのような聖獣は神によって直接、その制約を破る権限をある程度与えられているのです。ですので、確かな空想さえあれば、属性による相性の問題を省略し、このように願いを形に出来るのです。膨大な魔力とそれを使うための強固な意思が必要になりますし、暴力的なものとあまりの過干渉は咎められるので不可能ですが。」
服の裁縫は、干渉の部類ではあるが、過干渉ではないので咎められないということらしい。
「では、自分で服を直す魔法というのは、普通の人間には難しいのですね。」
服を直す魔法が使えたら、森で今回のようなことが起っても何事もなかったように帰ることができるとシェルマは考えてみたのだが、どうやら無理らしいことに落胆した。
「無理やりできないことはありませんが、複雑で高度、何より手間と時間がかかります。洋裁屋の方が余程魔法より魔法のような手仕事をしますから、任せるのが一番ですよ。」
魔法は何もかもを便利にするものではありませんからね。と聖獣は付け加える。困りごとを解決するのに早い手段が手仕事なら、それは魔法よりも魔法、というのはその通りである。
「なら、存在しない魔法を作ってしまおうという試みは、難しいのですね。空想を魔法で形にするのは、人間には出来ないこと、なのであれば。」
「たった一人の願いが精霊を動かすというのは難しいですが、多くの人が同じことを願った場合は、とだけ言っておきましょうか。毎日が、実は誰かの魔法で繋がっている、ということもありますからね。」
鹿がそう語ったあと、怪我人が待っているのでしょう?とシェルマを急かした。魔法と精霊の授業はここまでらしい。
「あの、先ほどから気になっていたので、それだけ尋ねてもよろしいですか?」
「手近なものでしたら。」
シェルマは聖獣の承諾を得て、視界に映っている物に目を移した。光の楽園に不釣り合いな、丁寧に口を縛られたぼろぼろの暗い色の袋が、隅の方に置いてあるのが、シェルマはずっと気になっていた。
「あれは、何ですか?」
「あぁ、戦利品です。右の角を折ったのですから、この程度の痛手は我慢していただかなければ。」
心なしか聖獣の声音は大変満足そうである。
「戦利品、ちなみに中身は?」
「一万五千ゴールドです。」
聞いたことのない単語である。一万五千ゴールド。シェルマの世界で唯一見たことのある大金は五百ゴールド。薬草、薬売り、治療などで得ている教会の収入、約一年分である。普段はブロンズ、シルバーという単語を使っている。食料などは基本自給自足。三食はおよそ六十ブロンズ。一か月の食費は十八ゴールド。食費だけでいえば単純計算で、本当に慎ましく過ごせば七十年間は暮らせる金額である。
シェルマが普通の少女であったなら、金額を聞いただけで卒倒しそうなものである。
「それは、互いに痛み分けをできたということでしょうか。」
「きっとそうなると信じています。角を折られた結果、森で発動していた結界に揺らぎが生じましたから。責任は取っていただかないといけませんし。あなたが今日襲われたのも、そのせいですから。」
「普段から私を導いてくださったのは、貴方だったのですね。」
シェルマは今日という今日まで森で野生動物に襲われたことはなかった。これは、聖獣エトワの結界の影響であったらしい。そして、それを揺らがせた誰かがいるらしいということも、段々と輪郭を帯びてきていた。
「えぇ。あなたは、こちら側の、言ってしまえば同胞のようなものですからね。」
エトワは少女を愛おしそうに眺める。聖獣から少女への感情は、一番年下の家族に対する親愛の情に近い。
「同胞。」
長年の疑問が解けていくような感覚だった。
「私は、人間ではないのですね。」
ぽつりと、シェルマはそんな言葉を口から漏らした。それは、憂いを帯びることができない、無垢な赤子のような、感情の発露が覚束ないなりの悲鳴だったのかもしれない。
「見た目こそほとんど人間と変わりませんが、生物の区分としては外れていますね。人間では有り得ないことが今まであなたには起こったでしょう。それは、神からの贈り物……今はそういうことにしておきましょう。」
「ムタが聞いたら怒りそうです。」
「人の感覚では、そうでしょうね。」
聖域に静寂が流れる。契約・詠唱なしに魔法が使えるのも、傷がついてもすぐに治ってしまうのも、眠らなくていいのも、食べなくていいのも、感情がよくわからないのも、色んなことに納得ができてしまった。
「あなたについては、時が来たら伝えましょう。まだ穏やかに生きなさい、幼いあなた。」
「そういえば、まだ名前を名乗っていませんでした。」
「知っていますよ。シェルマ、良い名前をつけてもらいましたね。」
ふわりと風が舞った。視界が開けたような感覚。迷子の手を見つけて掴んでもらった感覚。このとき、名前は良いものだとシェルマは思った。ムタから貰った名前は、自分を人間たらしめてくれる、魔法のような存在だった。
「はい。大事な名前です。」
この発言は、シェルマにとって珍しい本心だった。
聖獣は、少女の様子に笑みをこぼす。
「さぁ、そろそろ帰りなさい。真っすぐ歩けば、森が勝手に道を整えてあなたをトランへ返すでしょう。」
光の粒の一つが蝶に変質する。これが道案内の役らしい。
「一つだけ忠告をしましょう。あなたが今朝拾った男には気をつけなさい。治療は言っても止めないでしょうから、それだけです。悪い男ですし、風の便りで、詳しくは知らないのですが、男の背後にいる組織が我々のような存在には厄介な相手らしいのです。」
「角も折られましたし。」とエトワは付け加える。シェルマは、そんなに悪い男なのか、と思った。一度言葉を交わしただけの、名前もまだ知らないあの人のことを思い浮かべる。
「角を折ったんですね。」
「そうです。」
「なら、悪い人なのでしょうか。」
「そうでしょう。」
エトワの言葉の節々に私怨がにじみ出ている気がするとシェルマは思った。
人の大切なものを奪ったり傷つけたりするのはやはり良くないことだとシェルマは改めて確信した。また、下手に何かを破壊するのも止めておこうとも思った。大事なものだと分かっていなくてうっかり、ということもあるだろうし、何より聖獣ほどの格の相手をうっかりでも怒らせたくはない。
「忠告、感謝します。気を付けます?」
「気を付けてくださいね。」
何に気を付ければ良いのだろう。懐柔されないようにしろ、という意味なら問題はない。一時の気分で相手を懐に入れる感覚とか、シェルマには理解できないことであるからだ。
道案内の蝶がゆらゆらとシェルマの視界を浮遊する。帰りましょう、ということらしい。
「それでは、ありがとうございました。さようならエトワ。」
「えぇ、さようならシェルマ。あなたが立派に成長したときにまた会いましょう。困ったことが起こったり、為すべきことが見つかったりしたら、私の下へ来ても構いませんからね。」
「濫用は厳禁ですが。」とエトワは付け加える。元通りの服に戻ったシェルマは、少しの秘密と事実を抱えて、トランへ帰ることにした。
幻想的な空気が霞んでいつもの静かで穏やかなだけの森の風景に戻っていく。帰り道、光る蝶を見ながら、あの一万五千ゴールドは男の持ち物だったことに気づいて、男が起き上がってから慌てふためくかもしれないなと、ふと考えた。




