三日目、執事の気遣い
地下室の三日目になると、寒さはもう「つらいもの」ではなく、身体の一部に入り込んで離れないものになっていた。
朝から指先の感覚が鈍い。
足元は冷えきっていて、立ち上がるたびに膝が少し頼りなくなる。
食事は二度だけ、量も少ない。眠りも浅く、夜のあいだに何度も目が覚めた。
そのたびに妻は、扉の向こうに気配がないか耳を澄ませてしまう。
けれど三日目の朝も、聞こえてくるのは石壁に包まれた静けさだけだった。
妻は椅子に腰かけたまま、膝の上で手を組んでいた。
姿勢は崩れていない。けれど、最初の日のような張りつめた美しさは、少しずつ薄れてきていた。
頬の血色は悪く、唇もかすかに乾いている。
それでも、扉の音がすれば顔を上げる。
旦那様かもしれない。
その期待だけは、まだ消えていなかった。
昼の食事が運ばれたあと、しばらくしてからだった。
いつものメイドの足音とは違う、もっと慎重で、重みのある歩き方が廊下の向こうで止まった。
扉の前に立つ気配。
鍵に触れる、ひどく静かな音。
妻ははっとして立ち上がった。
胸が高鳴る。
――旦那様。
そう思った。三日目にして、ようやく来てくださったのだと。
だが扉がわずかに開いたとき、そこにいたのは相馬だった。
妻の目に浮かんだ光が、ほんの一瞬だけ揺れる。
期待した相手ではなかったという小さな落胆。
けれどすぐに彼女は表情を整え、やわらかく微笑んだ。
「……相馬さん」
相馬は扉を細く開けたまま、中へ入ることなく低い声で言った。
「奥様。少しだけ、お顔を見に参りました」
その顔には、いつも以上に深い憂いが刻まれていた。
地下室の薄暗い灯りの中でも、妻が弱っているのは明らかだったからだ。
「このようなことをしていると旦那様に知られれば、お叱りを受けるのではありませんか」
妻はそう言いながらも、相馬の来訪を責める色はひとつもなかった。
ただ心から案じているのがわかる。
相馬は眉を寄せる。
「そのようなことを気になさらずとも――」
「気になります」
妻は静かに言い切った。
声は弱っているのに、不思議とやわらかくはっきりしていた。
「相馬さんが私のために咎められるのは、嫌です」
相馬は言葉を失う。
妻は地下室の冷たい空気の中で、粗末な服の袖をそっと握った。
細い指先は冷えて白くなっている。
「私のことは、どうぞお気になさらないでくださいませ」
「奥様」
「お願いです」
妻は微笑んだ。
その微笑みは以前よりずっと弱々しい。
けれど、その弱さの中にも相手を思いやる気持ちだけは少しも翳っていなかった。
「相馬さんまで旦那様のお怒りに触れてしまったら……私は、もっとつらいのです」
その言葉に、相馬の胸が詰まる。
自分が寒さに耐えているときでさえ。
三日も閉じ込められ、食事もわずかで、誰とも会話を許されず、目に見えて弱り始めている今でさえ。
この人は、まず自分ではなく他人を気遣うのだ。
昔からそうだった。
自分が苦しいときほど、周りを安心させようとする。
泣いていても、次に人前へ出るときには必ず笑う。
傷ついていても、誰かのために言葉を選ぶ。
「奥様、せめて何か必要なものは……」
「十分でございます」
妻は小さく首を振る。
「寒くはありません、とは申しません。少し、こたえます。けれど、旦那様がお命じになったことですから」
そこまで言ってから、妻はほんの少しだけ目を伏せた。
「……それに、私がここで反省していれば、旦那様のお気持ちも、いつかおさまるかもしれません」
その言い方に、相馬は痛ましさを覚えずにいられなかった。
待っているのだ。
三日経っても、まだ。
冷たい仕打ちのあとでも、あの若い主人が自分を迎えに来てくれることを。
「奥様」
相馬は思わず一歩踏み込みかけた。
だが妻はやさしくそれを制した。
「来ないでくださいませ、相馬さん」
相馬がはっとする。
妻は変わらず微笑んでいた。
「私のためではなく、相馬さんのために申し上げております」
「……奥様」
「旦那様は、相馬さんに何度もお怒りになりました。私のことで、これ以上お気持ちを逆立てていただきたくないのです」
地下室の薄闇の中、その言葉だけがひどく静かに響いた。
「ですから、どうかもうここへは来ないでくださいませ」
決して冷たい言い方ではない。
むしろ、これ以上ないほどやわらかかった。
それでも、その裏にあるのが自分を遠ざけるためではなく、自分を守るための願いだとわかるからこそ、相馬にはつらかった。
「私などのことより、相馬さんがお立場を悪くされる方が、よほど困ります」
「そのように仰らないでください」
「いいえ」
妻は小さく息をつき、疲れを隠すように背筋を伸ばした。
「相馬さんは、この屋敷に必要なお方です。旦那様のおそばにも、どうしても必要です。……私のことで、失ってはなりません」
相馬は、もう何も言えなかった。
若い主人のためにも、この屋敷のためにも、そして何より自分のためにも、来るなと言っている。
この状態でなお、そう言える人を前にして、どんな慰めが口にできるだろう。
相馬は深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
妻はほっとしたように、ほんの少しだけ微笑みを深めた。
「ありがとうございます、相馬さん」
その顔色は悪い。
立っているのもつらいのではないかと見える。
それでも彼女は、最後まで相馬を案じる側でいようとした。
相馬は扉を閉める前、最後にひとことだけ低く言った。
「奥様。どうか、ご無理だけは」
妻は静かにうなずく。
扉が閉まる。
再び地下室には冷たい静寂だけが戻った。
妻はその場にしばらく立っていたが、やがて力が抜けるように椅子へ腰を下ろした。
短いやり取りだけで、思っていた以上に体力を使ってしまったらしい。
息を整えるまでに少し時間がかかった。
自分でも、弱ってきているのがわかった。
寒さ。
静けさ。
短い食事。
会話のない時間。
そして何より、待っても待っても来ない人を待ち続けること。
それが少しずつ、心と身体の両方を削っていく。
それでも妻は、相馬を巻き込みたくなかった。
旦那様がさらに怒ることだけは避けたかった。
「……相馬さん」
誰もいない部屋で、小さくその名を呼ぶ。
申し訳なさと感謝が胸に滲む。
そしてそのあとには、やはり別の名が心に浮かぶ。
旦那様。
会いたい。
ただそれだけだった。
――――
一方その頃、夫は書斎で報告を受けていた。
相馬から直接ではない。
だが地下室へ食事を運ばせた使用人の様子や、屋敷内の空気で、妻が弱ってきていることを薄々察していた。
三日目だ。
あの女はきっと、まだ待っている。
扉の音に顔を上げ、足音に期待し、違えばまた静かに座り直す。
そんな姿が、見もしないのに目に浮かぶ。
夫は書類に目を落としたまま、眉をひそめた。
気になる。
様子を見に行けばいい。
ほんの数分で済む。
地下室の扉を開けて、顔色を見て、反省したかと聞いて、それだけでいい。
だが行かない。
行けば、終わってしまう気がした。
自分が怒っているという形が。
罰しているという体裁が。
何より、自分の嫉妬がいかにくだらなく、醜いものかを認めることになる。
それが耐え難かった。
妻がほかの男に自然な笑みを向けた。
たったそれだけのことが、今も胸の奥で焼けている。
あんな顔を、自分には見せないくせに。
いや、見せなくしたのは自分かもしれないという考えがよぎるたび、いっそう苛立つ。
夫はペンを置いた。
行きたいのではない。
確認したいだけだ。
ちゃんと反省しているか。
罰が足りているか。
そう自分に言い聞かせる。
だが胸の内では、別の声がある。
寒がっていないか。
泣いていないか。
倒れてはいないか。
その声を振り払うように、夫は椅子の背にもたれた。
「……行くものか」
低い独り言は、誰にも聞かれない。
会えば、心配していることが伝わる。
会えば、許してしまいそうになる。
会えば、きっとまた自分の弱さを思い知らされる。
だから行かない。
三日目の夜も、夫は妻に会いに行かなかった。
そのすれ違いだけが、石壁の冷たさよりも重く、深く、二人のあいだに積もっていった。




