扉の音に縋る二日目
地下室の二日目は、一日目よりも静かだった。
寒さに身体が慣れたわけではない。
むしろ冷たい石の空気は、昨夜よりも深く骨の奥へ染み込んでくるようだった。
粗末な服は相変わらず肌に痛く、眠ったのか眠れなかったのかも曖昧なまま、妻は朝を迎えた。
もっとも、この場所では朝なのかどうかさえ、よくわからない。
小さな明かりと、わずかな空気の変化だけが時間の流れを知らせる。
妻は椅子に座り、膝の上で手を重ねていた。
指先は冷え、少し赤くなっている。
けれど姿勢だけは崩さない。
旦那様がおいでになったとき、みっともない姿をお見せしたくない。
その思いだけが、二日目の朝も彼女を支えていた。
やがて――
かすかに、廊下の向こうで音がした。
妻ははっと顔を上げる。
扉の前へ近づく足音。
金具に触れるような小さな気配。
それだけで胸が強く鳴った。
旦那様かもしれない。
そう思うより早く、妻は立ち上がっていた。
冷えで鈍くなった身体が、その瞬間だけは驚くほど軽く動く。
乱れのないように裾を整え、背筋を伸ばし、扉の方を見る。
けれど開いたのは、食事を運ぶメイドの手によってだった。
目に見えて表情が変わったわけではない。
妻はいつものように、静かに微笑んだ。
「ありがとうございます」
だが胸の奥では、ほんの小さな落胆が音もなく沈んでいく。
ああ、違った。
たったそれだけのことが、思っていたよりもずっと寂しい。
期待してしまった自分が恥ずかしく、同時に哀しかった。
メイドは無言で盆を置き、すぐに下がっていく。
扉が閉まる。
その音は、期待が断ち切られる音にも似ていた。
妻はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて静かに椅子へ戻った。
いまのは食事を運ぶ音でしかない。
そう自分に言い聞かせる。
それなのに、そのあとも扉の外で少しでも音がすると、身体が先に反応してしまう。
誰かが通っただけの足音。
遠くで物が置かれた小さな音。
廊下を歩く気配が、こちらへ向かってくるように思える一瞬。
そのたびに、妻は無意識に顔を上げる。
もしかしたら。
今度こそ。
旦那様かもしれない。
だが、違う。
違うとわかるたび、落胆は最初より少しずつ深くなった。
一日目は、来てくださるかもしれないという希望がまだまっすぐにあった。
二日目になると、その希望には寂しさが混じる。
どうして来てくださらないのだろう。
まだそんなに、お怒りなのだろうか。
それとも本当に、私のことなど気にも留めておられないのだろうか。
そんな考えが、心の隙間に入り込んでくる。
妻は小さく首を振った。
いけない、と思う。
旦那様を疑うようなことを考えてはいけない。
自分はただ、反省して待てばよいのだ。
そう思っても、寂しさは消えなかった。
昼の食事が運ばれてきたときも、妻はやはり扉の音に胸を高鳴らせた。
立ち上がり、扉の前を見つめる。
だが現れたのは、昨日と同じように無言のメイドだけ。
「ありがとうございます」
その声は穏やかだった。
けれどメイドが去ったあと、妻はしばらく食事に手をつけられなかった。
自分でも気づかぬうちに、期待している。
怒られてもいい。
冷たくされてもいい。
ただ、顔を見たいのだ。
そんなふうに思っていることを認めるのが、少しだけ苦しかった。
もし本当に嫌われているのなら。
もしこのまま忘れられてしまうのなら。
その想像は、地下室の寒さよりも妻を冷えさせた。
午後になると、地下室の静けさはいっそう濃くなる。
言葉を交わせる相手はいない。
食事を運ぶメイドも、目を合わせることすら恐れている。
短い食事の時間以外、妻はただひとりで待つだけだった。
待つ。
それしかすることがない。
待ちながら、妻は小さな物音に何度も心を揺らす。
扉の向こうに人の気配がすると、胸が痛いほど期待する。
違ったときには、そのたびにわずかな寂しさが積み重なる。
二日目の終わりが近づく頃には、その寂しさはもうごまかせないものになっていた。
旦那様に会いたい。
その思いが、寒さと沈黙の中で、昨日よりもはっきり形を持っていた。
――――
一方その頃、夫は書斎にいた。
机の上には書類が積まれ、報告も届いている。
いつも通りなら一つずつ片づけていくはずの仕事に、今日はどうにも手がつかない。
理由はわかっていた。
地下室にいる妻のことが、頭から離れない。
もう二日目だ。
寒いだろうか。
ちゃんと食べているだろうか。
あの女は、与えられたものを残さず食べるだろう。
黙って、静かに、文句ひとつ言わずに。
その様子が目に浮かぶのが、余計に苛立たしかった。
夫はペンを置き、椅子にもたれた。
行こうと思えば行ける。
地下室へ下りて、顔を見るくらい、何でもないことだ。
だが行かない。
行けば、何を言う。
反省したか、とでも聞くのか。
あの目で静かに見上げられたら、自分はまた何を口にしてしまうかわからない。
それに、今行くのは負けるような気がした。
ほかの男に自然に笑った妻を見て、激しく嫉妬した。
その感情のまま地下室へ閉じ込めた。
そんな自分の醜さを、彼自身が一番よく知っている。
だから会いに行けない。
会えば、地下室に入れたことを後悔している自分まで見透かされそうだった。
心配していると知られたくなかった。
何より、あの女に対して自分がどれほど執着しているか、認めたくなかった。
夫は苛立たしげに立ち上がり、窓辺へ向かう。
だが見えるのは庭で、地下室ではない。
見えない場所に閉じ込めたはずなのに、かえって気になる。
扉の向こうで、あの女が今どんな顔をしているのか。
泣いているのか。
それとも、またあの穏やかな顔でじっと耐えているのか。
考えるだけで胸の奥が落ち着かない。
「……馬鹿らしい」
低く吐き捨てても、気持ちは消えなかった。
会いたいわけではない。
ただ気になるだけだ。
そう言い聞かせる。
だがその“気になる”が、昨日よりも深くなっていることを、夫は否定できなかった。
夜になっても、彼は地下室へ行かなかった。
妻は扉の音を待ち続け、夫はその扉の前へ行かぬまま過ごす。
二人とも互いを思いながら、互いに近づかない。
地下室の二日目は、そんなすれ違いのまま、ひどく静かに過ぎていった。




