地下室の一日目
地下室での一日目は、ひどく長かった。
朝と夜の区別さえ曖昧になるような場所だった。
石造りの壁は分厚く、外の光はほとんど届かない。小さな明かりがひとつあるだけで、そこから生まれる淡い光も、冷たい床や壁の湿り気をやわらげはしなかった。
空気は肌に重く、じっとしているだけで体温を奪っていく。
椅子は粗末で、長く座っていれば背も腰も痛くなった。立っていても寒い。座っていても寒い。歩ける広さもわずかで、部屋の端から端まで数歩で着いてしまう。
それでも妻は、泣き言を口にしなかった。
旦那様のお命じになったことだから。
そう思えば耐えられると、自分に言い聞かせていた。
地下室へ入れられてからしばらく、妻は扉の近くに立っていた。
もしかしたら、すぐに旦那様のお気持ちが変わるかもしれない。
少し時間が経てば、呼び戻してくださるかもしれない。
そんな望みを、完全には捨てきれなかったからだ。
だが、どれだけ耳を澄ましても、聞こえるのは地下室そのものの静けさばかりだった。
石壁の向こうで屋敷の気配がかすかに生きているのはわかる。けれど、それは遠い。
ここは屋敷の中にありながら、切り離された場所だった。
やがて妻は、そっと椅子に腰を下ろした。
粗末な布の服は肌当たりが悪く、いつもの上質な衣服よりずっと重く感じる。下働き以下の服装に替えよと命じられたとき、羞恥がなかったわけではない。
けれどそれすらも、今はもう静かに胸の奥へ沈めていた。
お昼ごろになって、ようやく扉が開いた。
食事を運んできたのは若いメイドだった。
盆の上には、冷めかけたスープと固いパン、それに少しばかりの温野菜が載っている。量は多くない。女主人に出される食事ではなく、罰を受けている者に与える最低限のものだった。
メイドは盆を置き、俯いたまま一礼する。
その顔には緊張が浮かんでいた。
妻は立ち上がり、やわらかく微笑んだ。
「ありがとうございます」
だがメイドは何も答えなかった。
答えられないのだと、妻はすぐに察した。
地下室へ食事を運ぶ者に、余計な会話を許していないのだろう。
妻と親しく言葉を交わしたと知られれば、それだけで咎められるかもしれない。
メイドは視線を上げぬまま、すぐに部屋を出ていく。
扉が閉まる音が、やけに固く響いた。
部屋にはまた静けさだけが残る。
妻は小さな卓に向かい、ひとり食事を始めた。
パンは乾いていて、口の中の水分を奪った。スープもぬるく、温かさで寒さを追い払うには足りない。
それでも残すことはしなかった。旦那様がお命じになった場所で、出されたものをきちんといただく。それもまた、自分にできる従順の形のように思えた。
食べる時間は短かった。
量が少ないからでもあるが、何より、食事に向かい合う誰かがいないのがつらかった。
普段の朝食でも、妻は夫と一緒に食卓には着かない。
けれどあの場には少なくとも旦那様がいた。
皿をお出しし、飲み物を注ぎ、短くても言葉を交わせた。
今は、それすらない。
妻はスプーンを置き、しばらく膝の上に手を重ねた。
旦那様は、今日は来られるのだろうか。
その考えが、何度も胸に浮かぶ。
叱責でもいい。
冷たい言葉でもいい。
顔を見てくださるなら、それでよかった。
だが午後が過ぎ、地下室の空気がさらに冷えてきても、扉は開かなかった。
妻は時折立ち上がって数歩だけ歩き、また椅子に戻る。
寒さで指先がかじかみ、無意識に自分の腕を抱くこともあった。
声を出さない部屋では、自分の衣擦れすら大きく聞こえる。
こうしていると、時間の感覚がおかしくなる。
まだ一刻しか経っていないのか、もう何時間も過ぎたのか、わからなくなってくる。
それでも妻は、何度も姿勢を正した。
旦那様がおいでになったとき、みっともない姿をお見せしたくない。
それだけを支えにしていた。
夕方とも夜ともつかぬころ、再び扉が開いた。
今度も別のメイドが食事を運んできた。
盆の上には薄い煮込みと小さなパン、それに水だけ。昼よりもさらに簡素だった。
妻は立ち上がって一礼する。
「ありがとうございます」
やはり返事はない。
メイドは怯えたように視線を伏せたまま、盆を置いてすぐに下がろうとする。
その背を見て、妻は思わず聞きたくなった。
旦那様はお元気ですか。
お食事は召し上がりましたか。
お仕事はお忙しいのでしょうか。
少しでも、私のことを気にしておられますか。
けれど、口には出さなかった。
聞けば困らせる。
答えられない相手を、さらに苦しめるだけだとわかっていた。
だから妻はただ静かに微笑み、メイドが去るのを見送った。
扉が閉まる。
今日も、旦那様は来られなかった。
その事実が、ようやくはっきりと胸に落ちてくる。
あの方は会いに来ない。
少なくとも今日は、自分の顔を見ようとなさらなかった。
寒さとは別の冷えが、胸の内に広がった。
それでも妻は、自分を責める方を選んだ。
旦那様のお気持ちを損ねたのは私なのだから。
私があのように軽率に笑ってしまったから。
反省が足りないのだ。
まだ許していただけないのだ。
そう思えば、ほんの少しだけ耐えられる気がした。
食事を終えたあと、妻は椅子ではなく床に膝をついた。
石の冷たさが服越しに伝わる。痛いほどだったが、それでも姿勢を正して目を伏せる。
まるで祈るようだった。
どうか旦那様のお気持ちがおさまりますように。
どうか明日には、お許しいただけますように。
どうか、見放されませんように。
地下室の一日目は、そうして静かに更けていった。
扉は最後まで開かなかった。
夫は会いに来なかった。
それでも妻は、来ない人を待ち続けた。
寒さの中で。
沈黙の中で。
短い食事と、誰とも言葉を交わせぬ時間の中で。
待つことしかできないと知りながら、それでもなお、旦那様が来てくださるかもしれないと信じることをやめられなかった。
愛しているから。
そして、愛していること以外に、この場所で自分を支えるものがなかったから。




