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笑顔の罪

翌日の午後、屋敷の長い廊下にはやわらかな陽が差していた。


窓辺に落ちる光は明るく、昨日までの重苦しさを少しだけ薄めるようにも見えた。

けれど妻の胸の内は、朝から少しも軽くなってはいなかった。


それでもいつものように身なりを整え、静かに屋敷の中を歩く。

女主人としてではなく、まるで今も使用人であるかのように、誰かの邪魔にならぬ歩き方がもう身についている。


廊下の角で、帳簿と数枚の伝票を抱えた若い男性使用人と出くわした。

まだこの屋敷に来て日が浅い男で、妻に対しても必要以上に馴れ馴れしくすることはない。むしろ緊張した面持ちで頭を下げた。


「奥様、失礼いたします」


「ええ。どうかなさいましたか」


「厨房から旦那様の書斎へお届けする品の件で、少し確認がございまして……」


男はそう言って、手元の紙を見せた。

内容は些細なものだった。書斎へ運ぶ茶器の数と、応接用の菓子をどちらにするか。それだけのことだ。


妻は目を通し、丁寧に答える。


「それでしたら、今日は焼き菓子の方がよろしいかもしれません。旦那様は午前中からお忙しそうでしたから」


「なるほど……ありがとうございます。助かりました」


「いいえ。私でわかることであれば」


若い使用人は、まだ緊張しているのだろう。

だが妻が穏やかに応じるうち、少しずつ肩の力が抜けていくのがわかった。


「奥様は、こういうことまで覚えていらっしゃるのですね」


「昔が長いものですから」


「昔、でございますか?」


妻はほんの少しだけ、懐かしむように目を細めた。


「この屋敷が今ほど大きくなかった頃は、使用人も少のうございましたので。私も今よりずっと、いろいろなことをしておりました」


男は目を丸くした。


「奥様が、でございますか?」


その言い方があまりにも素直で、妻は思わずくすりと笑った。


「そんなに意外そうなお顔をなさらないでくださいませ」


その笑みは、作ったものではなかった。


旦那様の機嫌を損ねぬための笑みでも、誰かを安心させるためだけの笑みでもない。

ただ一瞬、昔を思い出して自然にこぼれた、やわらかな笑みだった。


その瞬間。


廊下の向こうから歩いてきた夫が、その光景を目にした。


足音は静かだった。

だが空気が変わったことで、まず若い使用人が気づいた。顔から血の気が引き、慌てて姿勢を正す。


妻も振り返る。


夫は数歩離れた場所で立ち止まり、何も言わず二人を見ていた。

その目は凍るように冷たく、けれど奥底には黒く激しいものが燃えている。


「……旦那様」


妻が静かに頭を下げる。

だが夫の視線は、妻ではなく、まだ青ざめたままの男性使用人へ向けられた。


「何をしていた」


「し、失礼いたしました。書斎へお届けする品について、奥様に確認を――」


「俺はお前に、妻と立ち話をしていいと許した覚えはない」


声は低い。

だがその静けさが、かえって周囲の空気を張りつめさせた。


「も、申し訳ございません!」


男は深く頭を下げる。


妻はすぐに一歩前へ出た。


「旦那様、その者は私に必要な確認をしただけでございます。咎めるようなことでは――」


「黙れ」


ぴしゃりと遮られ、妻は言葉を止めた。


夫の目が、ゆっくりと妻へ向く。


「お前は、ずいぶん楽しそうだったな」


その一言に、妻の胸がひやりと冷えた。


「……そのようなつもりでは」


「笑っていた」


妻は息を呑む。


夫は一歩近づいた。

廊下の空気が一気に重くなる。


「俺の前では、いつも同じ顔をしているくせに。ほかの男にはそんなふうに笑えるのか」


若い使用人は完全に顔面蒼白になり、震えていた。

だが夫の眼中にはもう入っていない。ただ、妻だけを見ていた。


妻は否定しようとして、しかし言葉を失った。

たしかに先ほど、自分は自然に笑ってしまったのだ。

何の打算もなく、昔を思い出して。


そのことが、今は罪のように思えた。


「申し訳ございません、旦那様」


「謝れば済むと思っているのか」


「そのようなつもりでは、決して……」


「言い訳するな」


夫の声は冷えきっていた。

けれどその奥で燃えているものは、相馬なら一目で嫉妬だとわかっただろう。

ただしこの場でそれを口にできる者など、誰ひとりいない。


夫は妻を見下ろし、感情を押し殺した声で言う。


「地下室へ行け」


妻がわずかに目を見開く。


「旦那様……」


「そこで頭を冷やせ。お前がどの立場の人間か、思い出すといい」


廊下にいた使用人たちの間に、緊張が走った。

地下室。反省部屋のように使われることのある、冷たく暗い石造りの空間だ。


夫はさらに冷酷に続けた。


「服も替えろ。そんな格好必要ない。下働き以下の服を着て行け」


妻の顔から、すっと血の気が引いた。

それでも彼女は逆らわなかった。


「……かしこまりました」


その返事が、かえって夫の胸を刺す。

泣いて拒めばいい。怒ればいい。

だが妻はただ従う。


夫は若い男性使用人を一瞥した。


「お前は持ち場へ戻れ。次に妻へ気安く話しかけたら、今度はそれだけでは済まさない」


「は、はい!」


男は逃げるように頭を下げ、足早に去っていった。


妻はその場に残る。

夫はもう彼女を見ようとせず、背を向けた。


「着替えが済んだら、相馬に案内させろ」


「はい、旦那様」


その声はどこまでも静かだった。


しばらくして、妻は自室から戻ってきた。


女主人の衣装も装身具もなく、身につけているのは、粗末で色あせた、下働きの者よりさらにみすぼらしい服だった。

布地は硬く、肌に合わず、袖口も裾も雑に仕立てられている。まるで彼女の身分を引きずり下ろすためだけに用意されたような服だった。


長い廊下に立つその姿を見て、控えていた使用人たちは皆、視線を伏せた。

誰も何も言えない。


相馬だけが、深く皺の刻まれた顔を険しくしていた。


「奥様……」


「大丈夫です、相馬さん」


妻はそう言って、いつものように微笑もうとした。

けれどその笑みはひどく薄かった。


「旦那様のお気持ちがおさまるのでしたら、私は……いつまででも地下室で反省いたします」


相馬は思わず眉を寄せる。


「そのようなことを仰ってはいけません」


「でも、私が悪いのです。旦那様のお気に障るようなことをしてしまいました」


「奥様」


「相馬さん、ご案内くださいませ」


それ以上、妻は何も言わなかった。


地下室は、屋敷の華やかさとはまるで別世界だった。

石の壁は冷たく、空気は湿っている。小さな明かりしかなく、座るための椅子すら粗末だ。


相馬は扉の前で立ち止まり、どうしても言わずにいられなかった。


「奥様、少しでも寒ければすぐに――」


妻は首を横に振る。


「ありがとうございます。でも、旦那様がお命じになったことですから」


そして地下室へ足を踏み入れ、静かに振り返った。


「旦那様の気がおさまるのであれば、私はいつまでもここで反省いたします」


その言葉に、相馬は返す言葉を失った。

あまりにも痛々しく、あまりにも従順だった。


扉が閉まる。


冷たい石壁の向こうへ妻を残したまま、相馬は重い足取りで執務室へ向かった。


夫は書斎の机に向かっていた。

だが仕事に集中しているようには見えない。ペンを持つ手には、抑えきれぬ苛立ちが滲んでいた。


相馬は一礼する。


「旦那様」


「何だ」


「申し上げにくいことではございますが……今の処分は、あまりにも行き過ぎかと存じます」


夫の手が止まる。


「行き過ぎ?」


「奥様はただ、使用人の問いに答えておられただけです。あの程度のことで地下室へ――ましてあのような服までお召し替えさせるのは、あまりに」


「相馬」


それだけで、空気が凍った。


夫はゆっくりと顔を上げる。

その目には怒りが宿っている。だがそれを激しくぶつけるのではなく、むしろ冷たく切りつけるような怒りだった。


「お前は俺に何度、同じことを言わせる気だ」


「ですが」


「口を慎め」


低く、鋭い声が書斎を裂く。


「俺の妻をどう扱うかは、俺が決める」


相馬は唇を引き結ぶ。

だが退かなかった。


「旦那様……奥様は傷ついておられます」


その瞬間、夫の視線が一段と冷たくなった。


「だから何だ」


相馬が息を呑む。


夫は立ち上がる。

若い体躯から放たれる威圧は、書斎の空気そのものを支配するようだった。


「俺の前では作り物の笑みしか浮かべない女が、ほかの男には自然に笑っていた」


その声は静かだ。

静かなぶん、かえって底知れぬ怒りがにじむ。


「それを見て、俺が何も思わないとでも思ったのか」


相馬ははっとした。

やはり、と胸の内で悟る。


嫉妬だ。


あまりにも身勝手で、あまりにも幼く、そしてどうしようもなく激しい。


だが夫はそれを愛情とも嫉妬とも認めない。

認められないからこそ、怒りとしてしか表せない。


「旦那様、それは……」


「言うな」


夫は鋭く遮った。


「余計なことを口にするな。俺はあの女に、自分の立場を思い知らせただけだ」


「しかし」


「下がれ!」


叱責が、今度ははっきりと相馬を打った。


「これ以上口を出すなら、お前も同罪とみなす」


相馬は深く頭を下げるしかなかった。


「……失礼いたします」


書斎を出たあとも、胸の重さは消えない。


一方、部屋に残った夫は、机に手をついたまま動かなかった。


脳裏に焼きついているのは、廊下で見た妻の笑顔だった。


あんな顔を、彼は知らない。


いや、本当は知っている。

まだ小さな屋敷で暮らしていた頃、彼女は時折、ああして自然に笑っていた。

彼の前でも、もっと今より近い距離で。


それがいつから消えたのか。

消させたのが誰なのか。

考えたくなくて、彼は目を閉じる。


それでも、あの笑顔を別の男に向けたことだけが許せなかった。


自分のものだ。

手放したくなくて結婚した。

好きだった。

だからこそ、ほかの誰かに自然な笑みを向けることが耐えがたい。


その感情は醜く、冷酷で、無慈悲な形でしか外へ出せない。


夫は拳を強く握りしめ、低く吐き捨てた。


「……俺以外に笑うな」


その声は誰にも届かない。

地下室の冷たい石壁の向こうにいる妻にも、もちろん届きはしなかった。

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