執事の思い
妻の自室の前まで来たとき、相馬は足を止めた。
もともと、用があって来たわけではなかった。
ただ、先ほど廊下で妻の影を見つけたあと、どうしてもそのままにはしておけなかったのだ。
あのやわらかな微笑みの薄さが、ひどく胸に引っかかっていた。
夜の廊下は静かだった。
人の気配もまばらで、遠くの持ち場を行き来する使用人の足音すら、もうほとんど聞こえない。
その静けさの中で、相馬は扉の前に立ち尽くす。
中から、物音はしない。
けれど――
ほんのわずかに、息を殺すような気配があった。
長くこの屋敷に仕えてきた相馬にはわかる。
人は本当に泣いているときほど、大きな声を立てない。
必死に堪え、誰にも悟られぬようにする。
そしてあの人は、昔からそういう泣き方をする人だった。
相馬は目を伏せる。
扉一枚隔てた向こうで、妻が泣いている。
はっきりと嗚咽が聞こえたわけではない。
けれど、静寂の中に混じるわずかな呼吸の乱れ、衣擦れの小さな音、そのすべてが、相馬には十分すぎるほど痛々しく感じられた。
「……奥様」
ごく小さく呼びかけかけて、相馬は口をつぐんだ。
呼んではならないと思った。
今、扉を叩けば、妻はきっと涙を拭いて、いつもの声で「大丈夫です」と答えるだろう。
何もなかったように微笑んでみせるに違いない。
その健気さが、どれほど無理の上に成り立っているのかを、相馬は知っていた。
だからこそ、踏み込めなかった。
相馬は執事であって、家族ではない。
若き頃から仕えてきた主人を諫めることすら許されぬ立場で、まして主人の妻の涙にどう手を差し伸べればよいのかなど、わからなかった。
ただ、拳を静かに握る。
今の屋敷に来る前。
まだ小さな屋敷で、主人と相馬と、そしてメイドだった妻の三人だけで暮らしていた頃から、相馬はずっと見てきた。
主人がどれほど妻を目で追っていたか。
どれほどその存在に安らいでいたか。
そしてそれを認めまいとして、逆に冷たく振る舞うようになっていったことも。
あの頃はまだ、今よりましだった。
不器用でも、せめてこのように傷つけ続けることはなかった。
だが富を築き、屋敷が大きくなり、主人としての威厳が増すほど、若い主人は鎧を厚くした。
優しさを見せることを恐れ、愛情を悟られることを恐れ、その恐れの分だけ、妻に冷たくなる。
愚かなことだ、と相馬は思う。
だが同時に、それがあの主人の弱さなのだとも知っていた。
扉の向こうで、かすかな気配がまた揺れた。
声を押し殺し、ひとりで涙をこぼしているのだろう。
誰にも見せぬように。
誰も責めぬままに。
相馬の喉の奥に、重いものがつかえる。
奥様は、旦那様をお愛ししておられる。
それがわかるからなおさら、見ているのがつらかった。
愛しているからこそ、あの冷たさを真正面から受け止めてしまう。
愛しているからこそ、逃げも恨みもしない。
「……まったく」
誰に向けるでもない小さな呟きが漏れた。
主人に対する苛立ちなのか。
何もできぬ自分への歯がゆさなのか。
相馬自身にも、もうわからなかった。
せめて今夜は誰にもこの部屋へ近づけまいと、相馬は静かに背筋を伸ばす。
扉の前に立つわけにはいかない。
それでは中の妻に気づかれてしまう。
だから少しだけ離れた廊下の脇へ下がり、誰かが来れば遠ざけられる位置に立つ。
それが今の自分にできる、精一杯のことだった。
中ではまだ、かすかな泣く気配が続いている。
相馬はその音を聞かぬふりをしながら、じっと夜の廊下を見つめた。
執事の顔には、深い皺のあいだにどうしようもない痛ましさが滲んでいた。
せめて、今夜だけでも。
誰にも見られず、誰にも邪魔されず、奥様が泣けるように。
そんな願いしか持てぬ自分を、相馬は内心で苦く思いながら、扉の向こうにいる人の孤独を静かに守り続けた。




