メイドの噂話
妻が広間を下がったあとの廊下は、ひどく静かだった。
夜の屋敷は、昼の豪奢さとは違う顔を見せる。
壁に等間隔で灯る照明は淡く、長い廊下の奥へ行くほど、影は深くなる。
妻はいつものように背筋を伸ばし、足音を立てぬよう静かに自室へ向かっていた。
目障りだ。下がれ。
先ほどの夫の声が、まだ耳の奥に残っている。
けれど妻は、広間を出るその瞬間まで微笑みを崩さなかった。
それが自分の役目だと、もう身体に染みついている。
曲がり角の手前で、かすかな話し声が聞こえた。
若いメイドたちだった。
夜の片づけの合間なのだろう、給仕室の近くで、声を潜めるように立ち話をしている。
「……でも、奥様もお気の毒よね」
「本当に。旦那様、あんなに冷たくなさらなくてもいいのに」
「きっと、お子様ができれば変わるんじゃない? 男の方って、跡取りができたら少しは落ち着くっていうし」
「そうかもしれないわね。奥様にお子様ができたら、旦那様ももう少しお優しく――」
その言葉に、妻の足が止まった。
胸の奥を、細い針で刺されたようだった。
子供。
その言葉は、何気ない世間話のようでいて、妻にとっては触れられたくない痛みだった。
結婚して三年。
それだけの歳月があれば、屋敷の内外でいろいろと言われるには十分だった。
―奥様なのに、まだお子様がいない。
―旦那様のお心が落ち着かないのも、そのせいかもしれない。
口に出しては言わずとも、そう考える者がいることくらい、妻にもわかっていた。
わかっていたからこそ、今まで聞こえぬふりをしてきた。
けれど今夜は、不意にその言葉が心の最も脆い場所に落ちた。
もし、私に子供ができたなら。
旦那様は少しでも変わってくださるのだろうか。
少しは穏やかに、少しはやわらかく、私を見てくださるのだろうか。
そんなことを考えてしまった自分が、情けなかった。
夫の愛情を、自分ひとりでは得られないのだと認めるようで。
子供という別の存在に、希望を託そうとしてしまう自分が、ひどく哀しかった。
そのとき、廊下の向こうから規則正しい足音が近づいてきた。
相馬だった。
年齢を重ねた執事は、立ち話をしているメイドたちを見るなり、すぐに表情を厳しくした。
「何をしている」
メイドたちははっとして姿勢を正す。
「相馬さん……」
「勤務中の私語は慎め。まして主人方について軽々しく口にするものではない」
声音は低いが、はっきりとした叱責だった。
「も、申し訳ありません」
「持ち場へ戻りなさい」
「はい……」
青ざめた顔で散っていくメイドたちを見送りながら、相馬はふと視線を上げた。
廊下の角、その先の薄い影の中に、妻のドレスの裾がわずかに見えた。
相馬の目が静かに細くなる。
――聞かれていた。
そう悟ったのだろう。
だが相馬は何も言わなかった。
ただメイドたちが完全にいなくなってから、影の方へ向かってごく静かに一礼した。
「……奥様」
妻はゆっくりと姿を見せた。
いつものように微笑んでいた。けれどその微笑みは、どこか薄く、頼りなかった。
「申し訳ございません、相馬さん。立ち聞きするつもりはなかったのですが」
「奥様が謝ることではございません」
相馬は慎重に言葉を選ぶように続けた。
「先ほどの者たちには、よく言い聞かせておきます」
妻はかぶりを振った。
「いいえ……あの子たちも、悪気があったわけではないのでしょう。
ただ、そう思われても仕方のないことですから」
その穏やかな口調が、かえって相馬の胸を詰まらせた。
「奥様……」
「大丈夫です」
妻はいつものように、やわらかく微笑んだ。
だがその笑みが、今夜ばかりはひどく脆く見えた。
「少し疲れましたので、部屋へ戻ります」
「……かしこまりました。どうぞお気をつけて」
「ありがとうございます、相馬さん」
そう言って、妻は再び廊下を歩き出した。
相馬はその背を見送りながら、何もできぬ自分に小さく息を吐く。
あの人は昔からそうだった。
傷ついても、苦しくても、誰かを責めるより先に微笑んでしまう。
それが余計に痛々しいと、相馬は知っていた。
妻が自室へ入ると、扉が静かに閉まった。
とたんに、屋敷の誰にも向けていた笑みが消える。
広く整えられた部屋だった。
女主人にふさわしい調度品が置かれ、鏡台も寝台も上質なものばかりが揃えられている。
けれど妻には、ときどきこの部屋がひどく空虚に思えた。
豪華であることと、満たされることは違う。
妻は扉の前に立ったまま、しばらく動かなかった。
子供ができれば。
その言葉が、また胸の奥で繰り返される。
結婚してから今日まで、子宝に恵まれなかった。
医師を呼ぶようなことを夫が命じたことはない。
責められたことも、はっきりそのことで何かを言われたこともない。
けれど、言われないからこそ、余計に考えてしまう夜があった。
もし私が、旦那様にお子様を差し上げられていたなら。
もしこの屋敷に、旦那様によく似た小さな命があったなら。
あの方は少しでも、違ってくださったのだろうか。
自分を見つめるあの冷たい目に、別の熱が宿ることもあったのだろうか。
妻はゆっくりと寝台の脇まで歩み、そこで力が抜けるように腰を下ろした。
誰もいない。
もう微笑まなくていい。
大丈夫だと言わなくてもいい。
旦那様のお気持ちを損ねないよう、表情を整え続けなくてもいい。
そう思った途端、目の奥が熱くなった。
「……っ」
声は出さなかった。
出してしまえば、本当に壊れてしまいそうだった。
唇をきゅっと結んだまま、妻は静かにうつむく。
膝の上で握った両手が、わずかに震えている。
ぽたり、と涙がひとつ落ちた。
それを合図にしたように、次の涙も、その次の涙も、頬を伝ってこぼれていく。
すすり泣きにすらならない、ただ静かな涙だった。
妻は泣きながら、心のどこかで自分を責めていた。
あのメイドたちの言葉に傷ついたのは、図星だったからだ。
自分でも、どこかで願ってしまっていたからだ。
子供ができれば、旦那様は少しは優しくなってくださるのではないかと。
けれど同時に、それでは足りないとも思っていた。
本当は、子供がいるからでも、妻だからでもなく、ただ自分自身を見てほしい。
旦那様に愛されたい。
その願いが胸の奥にあることを、もう妻は否定できなかった。
妻は夫を愛している。
冷たい言葉を向けられても。
目障りだと下がらされても。
外へ出ることも許されず、食卓にも着けず、ただ仕えることだけを求められても。
それでもなお、あの人を愛していた。
愛しているから苦しい。
愛しているから、どんな小さな拒絶も深く胸に刺さる。
愛しているから、ほんのわずかな優しさの気配にさえ縋ってしまう。
「旦那様……」
こぼれた呼びかけは、誰にも届かない。
妻は片手で口元を押さえ、声が漏れぬようにしながら、ただ静かに泣いた。
あの人を責める言葉は、ひとつも浮かばない。
浮かぶのはただ、自分がどうすればもっとあの人のお役に立てるのか、そればかりだった。
どうすれば旦那様のお心を損ねずにいられるのだろう。
どうすれば見放されずに済むのだろう。
どうすれば、あの方のそばにいられるのだろう。
涙で滲む視界の中、妻はそう問い続ける。
やがて彼女は、濡れた頬を自分の手でそっと拭った。
鏡に映る顔は、もう笑っていない。
それでもしばらくすれば、またいつものように微笑めると、自分で知っていた。
明日になれば、また旦那様のおそばに立つ。
何事もなかったように、柔らかく微笑んでお仕えする。
それが自分にできる、たったひとつの愛し方だった。
けれど今夜だけは、誰にも見せぬ顔で、妻はひとり涙を流し続けた。
愛しているからこそ癒えない痛みを、静かに、静かに抱え込むように。




