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朝食の距離

翌朝の食堂は、夜の大広間とは違う静かな明るさに満ちていた。

長い窓から差し込む朝の光が白いクロスの上に落ち、銀器の縁を淡く光らせている。豪奢な屋敷にふさわしい、整えられた朝だった。


けれど、その空気は少しも穏やかではない。


夫はテーブルの中央で新聞に目を落としながら朝食を取っていた。

妻はその傍らに立ち、皿を取り分け、飲み物を注ぎ、必要なものを静かに差し出している。


妻の席はない。


最初から用意されていないのだ。

この屋敷では、朝食の席で妻が夫と食卓を共にすることはなかった。彼女は妻でありながら、食事のときでさえ、まず夫に仕える者としてそこに立っている。


「旦那様、こちらをお取り分けいたしましょうか」


「……いらん」


短い返答にも、妻は柔らかく微笑んだ。


「かしこまりました」


夫は新聞をめくる。

その表情は朝から硬く、機嫌が良いとは言い難かった。使用人たちもそれを察して、音を立てぬよう慎重に動いている。


妻はスープを置き、パン皿の位置を整え、夫のカップにコーヒーを注いだ。

手元は静かで、無駄がない。三年前、小さな屋敷でたった一人のメイドとして働いていた頃から変わらぬ手際だった。


そのとき、妻はほんの少しためらうように目を伏せたあと、控えめに口を開いた。


「旦那様」


「何だ」


「本日はお天気もよろしゅうございますので……少しだけ、お庭へ出てもよろしいでしょうか」


新聞を持つ夫の手が止まる。


「庭に?」


「はい。長くはおりません。少し空気を吸いたいと思いまして」


夫はゆっくりと顔を上げた。

その眼差しには、昨夜と同じ冷たい光が宿っている。


「必要ない」


妻は一瞬だけまばたきをしたが、すぐに微笑みを整えた。


「……かしこまりました」


「お前に外へ出る理由がどこにある」


夫は新聞を畳み、テーブルに置いた。


「お前は部屋に籠っていればいい。あるいは俺の傍にいろ。それ以外のことを勝手に望むな」


食堂の空気が重く沈む。

近くに控える使用人たちは、顔を上げることもできない。


それでも妻は、逆らうことなく頭を下げた。


「申し訳ございません。差し出がましいことを申しました」


「わかっているなら、二度と言うな」


「はい、旦那様」


夫はカップを取り上げ、一口飲む。

苦みだけが舌に残る。目の前で従順に頭を下げる妻の姿が、なぜか朝からひどく胸に障った。


本当は、庭くらい好きに歩かせればいい。

そんなことは、彼自身もわかっている。


だが許したくなかった。


この屋敷のどこにいても、彼女の姿が目に入るようでいてほしい。

彼の知らぬところで、穏やかな顔をして風に触れる妻を想像するだけで、妙な苛立ちが湧く。

自由を与えることが、距離を与えることのように思えてならなかった。


夫は不機嫌そうにナイフを置いた。


「次」


妻はすぐに皿を下げる。

その指先は落ち着いている。昨夜あれほど冷たく言われたあとでも、彼女はいつも通りに仕えていた。


それが夫には腹立たしかった。

同時に、どうしようもなく安堵もした。


三年前。

まだこの巨大な屋敷ではなく、小さな屋敷に住んでいた頃。彼は使用人をひとり増やすつもりでいた。力仕事もさせるつもりで、来るのは男だと思っていた。


だが面接の日、扉の向こうに立っていたのは女だった。


三十歳。

地味で、控えめで、決して派手ではない。だが目だけは不思議なほどまっすぐで、疲れを知っている人間の静けさがあった。


正直に言えば、その瞬間、予定は狂った。


断るつもりで話し始めたはずなのに、気づけば彼は予定より長く彼女と話していた。

受け答えは丁寧で、余計なことは言わない。だがただ従順なだけでもなかった。誠実に働くことだけを望んでいるのが伝わってきた。


そして何より――彼女の前にいると、妙な安堵があった。


それまで一度も感じたことのない種類の感覚だった。


仕事の話をしているだけなのに、張りつめていたものが少しだけ緩む。

一人で生き、奪い、築き上げてきた彼の中に、ほんのわずかに静かな場所ができるような気がした。


あれが何だったのか。

今ならわかる。


一目惚れだったのだ。


だがその時の彼には、そんな言葉で自分を認めることなどできなかった。


雇ったあとも、惹かれていくばかりだった。

彼女が台所に立つ姿。

書斎の灯りを整える姿。

疲れた彼に何も問わず湯を置いて去る姿。

熱を出した夜、余計な慰めも言わず、ただ朝まで静かに看ていた姿。


気づけば彼の屋敷には、彼女がいることが当たり前になっていた。

そして当たり前になるほど、失うことが怖くなった。


だから結婚した。


手放したくなかったから。

好きだったから。


それだけのことを、彼は三年経ってもまだ言えない。


その言葉を口にすれば、自分が何か別のものに変わってしまう気がした。

冷酷であることで守ってきた自分を、彼女ひとりに崩されてしまうのが恐ろしかった。


だから、縛る。


妻として囲い、外出を許さず、食卓にも着かせず、傍に置いて、傍で仕えさせる。

そうしていれば失わずに済むと、どこかで信じている。


愚かだと自分でも思う。

だが他に方法を知らなかった。


朝食が終わると、妻は深く頭を下げた。


「お食事は以上でよろしいでしょうか、旦那様」


「ああ」


「では、お部屋へお戻りになりますか」


「しばらく書斎だ」


「かしこまりました」


夫が立ち上がると、妻はすぐに一歩退き、道を開ける。

その慎ましい動きが、彼女をますます遠いもののように見せた。


本当は、庭へ行きたいのなら行かせてやればよかった。

食卓にも座らせればいい。

朝くらい、穏やかに声をかければよかった。


だがそうできないまま、彼は妻の横を通り過ぎる。

すれ違う一瞬、妻のほのかな香りがして、彼は無意識に指を握りしめた。


――――


夜になると、屋敷にはまた重たい静けさが戻ってきた。


大広間のソファーに夫は身を沈め、片手に書類を持ったまま苛立ちを隠そうともしない。

商談のひとつが思うように進まなかったせいで、朝からずっと気分が悪かった。


妻はそんな彼の傍らで、静かに酒を注いでいた。


「旦那様、お酒でございます」


差し出されたグラスを受け取る。

彼女は夜になっても微笑んでいた。朝に庭を拒まれたことも、食卓に着けなかったことも、昨夜冷たく言われたことも、何ひとつ顔に出さずに。


それが夫には、また腹立たしい。


「お前はいつもそうだな」


妻が目を上げる。


「何のことでございましょうか」


「何を言われても、同じ顔をしている」


妻は少しだけ目を伏せた。


「旦那様にお仕えするのが、私の務めでございますから」


その答えが、彼の胸を刺す。

務め。役目。仕えること。

彼女はそういう言葉で自分を納得させている。


好きだからそばにいるのではなく、役目だからいるのだとでも言うように。


いや、違うことを彼は知っている。

知っているからこそ、認めたくない。


夫は酒を一口飲んで、グラスを卓上に置いた。


「……目障りだ。下がれ」


妻の唇の端が、ごくわずかに揺れた。

だがそれも一瞬で、すぐにいつものやわらかな微笑みに戻る。


「かしこまりました、旦那様」


彼女は一礼する。

そのまま離れていこうとする背中を、夫は呼び止めそうになった。


待て。

行くな。

せめて今夜はここにいろ。


喉元まで出かかった言葉は、結局、冷えた沈黙に変わる。


妻は音もなく広間を去っていった。


扉が閉まる。


夫は一人、ソファーに沈んだまま目を閉じた。


どうして優しくできないのか、自分でもわからない。

いや、わかっている。怖いのだ。


あの女に優しくした瞬間、自分はもう今までの自分ではいられない。

貧しい家に生まれ、誰にも守られず、誰も信じず、冷酷に生き抜いてきた男が、たった一人の女に心を明け渡してしまう。

そのことが、どうしようもなく恐ろしい。


だが同時に、彼女を失うことの方がもっと恐ろしい。


だから傍に置く。

檻のようなこの屋敷の中へ。


愛しているから。

手放したくないから。

好きだったから。


それだけの単純な本心を、彼はまだ、彼女に言えないままでいる。


暗い広間で、夫は誰にも聞こえぬほど小さく呟いた。


「……お前を手放せるわけがないだろう」


だがその声は、今夜もまた、妻には届かなかった。

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