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傷ついても、そばにいたい


「お前との結婚は、俺の気まぐれだ」


そう言われた夜のことを、私はたぶん生涯忘れないのだと思う。

傷つきながら、怖がりながら、それでも離れたくはなかった。

これは私だけが胸の奥に抱えていた、愛と不安の記憶。


―――――


旦那様から「お前との結婚は、俺の気まぐれだ」と言われた夜のことを、私はたぶん生涯忘れないのだと思う。


あの夜の広間は、ひどくあたたかかった。

暖炉の火が静かに燃え、磨かれた床には灯りがやわらかく落ちていた。

豪奢で、美しく、誰が見ても幸福そうな夫婦がくつろぐにはふさわしい部屋だった。


けれど、私の胸の内は少しも穏やかではなかった。


旦那様のおそばに立っているとき、私はいつも、心のどこかで緊張している。

三年前、旦那様の妻になってからも、それは変わらなかった。

むしろ屋敷が大きくなり、使用人が増え、私が“奥様”と呼ばれるようになってからの方が、旦那様は私に対していっそう厳しくなられたように思う。


昔の小さな屋敷では、使用人は執事の相馬さんと私だけだった。

今ほど人目もなく、今ほど立場の差を見せつけられることもなかった。

それでも私は、あの頃の方がまだ、旦那様のおそばにいる理由を素直に信じられたように思う。


私は三十のとき、住み込みの職を探していた。


貧しい家に生まれ、両親は早くに亡くなった。

身寄りというものはなく、若い頃から仕事を転々として生きてきた。

屋敷勤めも、商家の手伝いも、食堂の下働きもした。

人並みに誰かに心を寄せたことがなかったわけではない。

けれどそれが実ることはなく、私自身も、いずれ誰かに見初められて穏やかな家庭を持つなどという夢を、本気で信じたことはなかった。


だから、住み込みの求人を見つけたときも、私が求めたのは安定だけだった。


寝る場所があり、働く場所があり、明日を心配せずに済むこと。

それだけで十分だと思っていた。


初めて旦那様にお会いしたとき、正直に申せば、驚いた。


お若く、端正なお顔立ちで、けれど少しも隙がない。

視線は冷たく、言葉は必要最低限で、こちらを値踏みするような鋭さがあった。

恐ろしい、とまでは思わなかった。

ただ、この方は容易に人を寄せつけないのだろうと感じた。


けれども、仕事をする上では問題ないとも思った。


優しさを期待して働く年齢では、もうなかったからだ。

きちんと働けばよい。

求められることを果たし、余計なことを言わなければ、それでいい。

そう思っていた。


あの頃の旦那様は、今と同じく言葉の優しい方ではなかった。

けれど、時折ふっと、思いがけないところで気にかけてくださることがあった。


帰りが遅くなった私に「もう下がれ」とだけおっしゃること。

手が赤くなっているのをご覧になって、黙って湯を使わせてくださること。

私が少し咳をすれば、「風邪をひくな」と不機嫌そうに言われること。


どれも、いかにも旦那様らしい、ぶっきらぼうな優しさだった。

それでも私は、そうした小さなことの一つ一つに、少しずつ心を寄せてしまった。


気づいたときには、もう惹かれていたのだと思う。


けれど、それを口にすることは決してなかった。


旦那様は私より六歳もお若い。

私は貧しい育ちで、取り立てて美しいわけでもなく、ただ平凡な女だった。

旦那様のお隣に立つような女ではない。

そのことくらい、自分がいちばんよくわかっていた。


だからせめて、長くお仕えしたいと思った。


おそばで働き、必要とされ、少しでも旦那様の毎日を整えることができれば、それで十分だと。

恋が実らなくてもよい。

この屋敷にいて、この方の帰りを待ち、この方のために灯りをともすことができるなら、それで幸せだと思っていた。


それなのに、ある夜。


旦那様は私に「結婚しろ」とおっしゃった。


あのときの驚きは、今でも言葉にできない。

喜びと戸惑いと、信じてよいのかわからない気持ちが、一度に胸へ押し寄せた。


そこに愛情があるのかは、正直わからなかった。

旦那様はそういうことを言葉にされない方だったし、仮に情があったとしても、私がそれを勝手に“愛”と呼ぶのは傲慢な気がした。


それでも、私は嬉しかった。


これからもそばにいられる。

誰に遠慮するでもなく、この方のおそばにいることが許される。

そう思っただけで、胸の奥があたたかくなった。


私が三十二のときだった。


それから三年。

私は三十五になった。


旦那様は、結婚したあとも旦那様のままだった。

優しくなるわけではない。

甘い言葉をくださるわけでもない。

むしろ大きな屋敷を手に入れ、主人としての立場が強まるほど、私への接し方は厳しくなっていったように思う。


奥様と呼ばれていても、私はどこか、いつも試されている気がした。

その機嫌を損ねれば、今の立場もあっけなく失うのではないかと。

女主人の衣装を着ていても、心のどこかでは、まだ使用人の頃と同じように、私は旦那様の顔色を見ていた。


いいえ。


それは使用人だった頃よりも、もっと強かったのかもしれない。

失いたくないものが、あまりにも大きくなってしまったから。


あの夜、私は旦那様のおそばで、いつものようにそのお気持ちを損ねないよう努めていた。


けれど、失敗したのは私だった。

旦那様のお飲み物を、私は間違えてしまった。


その瞬間、旦那様のお声はひどく冷たくなった。

私は謝り、少しでも場の空気を和らげようとした。

使用人たちの前で、これ以上旦那様のお気持ちを荒立てたくなかった。


けれど旦那様は、それを許されなかった。


「お前の役目は何だ」


そう問われて、私は答えた。


「旦那様の機嫌を取ること、でございます」


それは、何度も自分に言い聞かせてきたことだった。

妻であっても、私の役目はそこにある。

そうでなければ、この方のおそばにいる理由を失う気がしていた。


そしてそのあとに、旦那様はおっしゃった。


「お前との結婚は、俺の気まぐれだ」


胸の奥が、ひやりと冷えた。


ああ、やはりそうだったのだ、とも思った。

どこかで、ずっとそう思っていたのかもしれない。

私は旦那様にふさわしい女ではない。

だからこの結婚に、確かな愛情や必然を求めてはいけないのだと。


それでも、苦しかった。


気まぐれ。


その一言で、私が胸の奥で大事にしていたものが、ひどく頼りないものに思えてしまった。

旦那様に選ばれたこと。

妻にしていただいたこと。

これからもおそばにいられると信じたこと。

それらすべてが、ふいに足元から崩れそうになった。


けれど、私は泣かなかった。

取り乱しもしなかった。


ただ、思ったのだ。


それでもいい、と。


気まぐれでも。

愛情でなくても。

一時の思いつきであっても。

私はこの方のそばにいたい。


その想いの方が、傷ついた気持ちより強かった。


私は旦那様を愛していた。


それはもう、認めるしかないほど深く、自分の中に根を張っていた。

優しい方ではない。

恐ろしいと感じることもある。

冷たい言葉に、胸が締めつけられる夜もある。

それでも、この方が私を見る目の中に、ときおり他の誰にも向けぬ熱があることを、私は知っていた。


気まぐれだとおっしゃったその目もまた、私を突き放しながら、私がどう受け止めるかを確かめるように見えた。


その矛盾が、余計に苦しかった。


旦那様は本当に、私をどう思っておられるのだろう。

妻なのか。

元の使用人なのか。

気まぐれの相手なのか。

それとも、もっと別の何かなのか。


わからない。

けれど、私にはひとつだけ確かなことがあった。


追い出されたくない。

離れたくない。

これからも、この方のそばにいたい。


あの夜、旦那様に、妻としてだけではなくメイドとしても使えない、いつ追い出されてもおかしくないと告げられたとき、私は傷つきながらも、どこかで安堵してしまった。


まだ、完全に見放されたわけではないのだと。

怒られているうちは、まだ旦那様の視線の中にいられるのだと。


情けないと思う。

都合のいい女だと、そう思われても仕方がないのだろう。


けれど私は、その“都合のよさ”の中にしか、自分の居場所を見いだせなかった。


旦那様の妻であること。

旦那様のおそばにいること。

それが私にとって、ようやく手に入れた安らぎだった。


だからあの夜、広間の灯りの中で、気まぐれだと言われてもなお、私は旦那様のおそばに立ち続けた。


怖かった。

苦しかった。

それでも、離れたくなかった。


もしあのとき、本当に「出ていけ」と言われていたら、私はどうなっていたのだろう。

そんなことを考えるだけで、今でも胸が少し冷える。


けれど同時に、あの夜の旦那様のお顔も忘れられない。


冷たく言い放ちながらも、少しも私から目を逸らされなかったこと。

私の返事を待ち、私の表情を見つめておられたこと。

そして最後には、顎を持ち上げて口づけを与えられたこと。


あの方は、不器用な方だ。

その頃の私は、まだそれを言葉にすることはできなかったけれど。

愛し方も、つなぎ止め方も、優しさの見せ方も、たぶん上手ではない。


だから私は、あの方の冷たい言葉の奥にあるものを、勝手に探してしまうのだ。


気まぐれだと言われた夜でさえ。


私は傷つきながら、なおその方を愛していた。


そして何より、これからも長くおそばにいたいと、そう願っていた。


たとえ気まぐれでもいい。

愛情だと明かしていただけなくてもいい。

それでも私は、この方のそばで生きていきたい。


それが、旦那様を愛してしまった私の、どうしようもない本心だった。

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