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気まぐれの結婚

夜の大広間は、いくつものシャンデリアに照らされ、金と琥珀の光に満ちていた。磨き上げられた床も、重厚な壁も、豪奢なソファーも、すべてがこの屋敷の主の成功を誇示しているようだった。


その中央で、夫は深くソファーに腰を預けていた。片肘を背にもたせ、長い脚をゆったりと投げ出し、まるでこの空間そのものを支配しているかのような姿だった。まだ二十九歳。だがその眼差しには、年齢に似合わぬ冷えた威圧感がある。


妻はそのすぐ傍らに立っていた。赤いドレスに身を包み、唇にはやわらかな笑みを浮かべている。けれどその笑みは、彼の機嫌を損ねぬために長年身につけたものだった。


控える使用人たちは、皆、静かに息を潜めている。


妻は銀の盆を捧げ持ち、夫の前にグラスを差し出した。


「旦那様、お飲み物をお持ちいたしました」


夫は受け取る前に一瞥しただけで、眉をひそめた。


「……何だ、これは」


妻は微笑みを崩さず、少しだけ首を傾げる。


「旦那様がお休み前によく召し上がるものを、と」


「俺が今日それを望んだと、いつ言った?」


その声は低かったが、広間にいた全員の背筋を凍らせるには十分だった。


妻の指先がわずかに揺れる。それでも彼女は丁寧に頭を下げた。


「申し訳ございません、私の気が回りませんでした」


夫は鼻で笑った。


「気が回らない? 違うな。お前は役立たずなんだ」


広間の空気がさらに重くなる。使用人たちは視線を下げたまま、誰一人身じろぎもしない。


夫はグラスに触れようともせず、冷たく言い放つ。


「こんなものは下げろ。……おい、そこのメイド」


控えていた若いメイドがびくりと肩を震わせ、慌てて前へ出る。


「は、はい」


「作り直せ。今度は俺が何を欲しているか、少しは考えろ。できないなら、この屋敷にいる価値はない」


「かしこまりました」


メイドは青ざめた顔で盆を受け取る。その瞬間、妻とすれ違った。妻はそのメイドにすら、ほんのかすかな微笑みを向けた。怯えさせぬように。安心させるように。


それが夫の癇に障った。


「まだ笑っているのか」


妻は静かに夫へ向き直る。


「旦那様のお気持ちを損ねてしまいましたのに、申し訳ございません」


「謝罪の形すらなっていないな」


夫はソファーに凭れたまま、冷えきった目で妻を見上げた。


「お前は俺の妻である以前に、俺の機嫌をとるための道具だ。それしか価値がない」


使用人たちの間に、目に見えぬ緊張が走る。


だが妻は怒るでもなく、悲鳴を上げるでもなく、ただ静かに言った。


「はい、旦那様。私にできることがございましたら、何なりとお申しつけくださいませ」


その従順さが、かえって夫の胸の奥を刺した。


三年前まで、妻はただのメイドだった。


まだこの巨大な屋敷ではなく、小さな屋敷で暮らしていた頃。そこにいたのは、若き主人である彼と、執事の相馬と、メイドであった彼女だけだった。


貧しい家に生まれ、何も持たず、誰にも守られずに育った彼は、自分の力だけで富を築いた。踏みにじられる前に踏みにじることを覚え、奪われる前に奪うことを覚えた。情に流されれば終わる。そう信じて生き延びてきた。


そんな彼に、彼女だけが、見返りもなく湯を淹れ、食事を作り、夜更けまで屋敷を整え、疲れ切った彼に「お疲れさまでございました」と微笑みかけた。


あの頃から、ずっと。


だからこそ、優しくするのが怖かった。


彼女に心を許してしまえば、自分の中の冷酷さが壊れてしまう気がした。自分を変えるものを、彼はずっと恐れていた。


夫はふいに身を起こした。


「顔を上げろ」


妻は従う。細い顎が、次の瞬間、夫の手に掴まれた。


「旦那様……」


長い指が顎を持ち上げる。逃げ場を与えぬ角度で、彼は妻の目を覗き込んだ。そこにあるのは恐怖ではなく、痛ましいほど静かな献身だった。


その眼差しが、たまらなく苛立たしい。


「結婚したのは、ただの気まぐれだ」


夫は低く囁いた。


「昔から傍に置いていた女を、そのまま妻にしてみただけだ。特別な意味なんてない」


妻は一瞬だけ目を伏せたが、すぐにまた微笑んだ。


「……それでも、旦那様が私をお傍に置いてくださいましたこと、感謝しております」


夫の眉がぴくりと動く。


「感謝?」


「はい。私は、旦那様にお仕えできることを幸せに思っております」


その言葉が真実だとわかるからこそ、彼は乱暴に彼女を引き寄せた。


唇を重ねる。


短く、強引で、所有を示すような口づけだった。


離れたあと、彼は冷笑を浮かべる。


「夫婦らしいことをしてやった。これで満足か」


妻の頬はわずかに紅をさしたが、声は震えなかった。


「……もったいないお言葉でございます」


「相変わらずだな」


夫は顎から手を離し、吐き捨てるように言う。


「飲み物ひとつまともに持ってこられないなら、妻としてだけじゃない。メイドとしても使えない。俺がその気になれば、お前なんていつ追い出してもおかしくない」


その瞬間、使用人たちの中に走った緊張は、さきほどまでとは比べものにならなかった。


追い出される。


その一言がどれほど残酷か、この屋敷にいる者は皆知っていた。この家の妻であると同時に、彼女はもともと使用人であり、外に出れば頼るものなどないと信じ込まされていることも。


けれど妻は、やはり微笑みを消さなかった。


「はい。旦那様がお望みなら、そのように」


その穏やかな顔が、夫には耐え難かった。


怒ってくれた方がまだましだった。泣いて縋ってくれた方が、どれほど楽だったか。


だが妻は、どれだけ傷つけても、夫を責めない。


それが夫の胸の最も柔らかい部分を、鈍く、執拗に抉っていく。


夫は目を逸らすように舌打ちした。


「……目障りだ。下がれ」


「かしこまりました、旦那様」


妻は深々と一礼する。その所作は完璧で、まるで叱責などなかったかのように優美だった。


妻が数歩退いたところで、作り直した飲み物を持ったメイドが戻ってきた。妻はその横を静かに通り過ぎる。すれ違いざま、若いメイドが怯えた目で妻を見たが、妻はやはり微笑みを向けるだけだった。


それは自分の痛みを隠すための笑みなのか、それとも本当に誰かを安心させたいだけなのか。夫にはわからなかった。


わからないことが、また苛立ちになる。


メイドが新しいグラスを差し出す。


夫は一口含み、無言でそれを卓上に戻した。


広間には、もう妻の姿はない。


それでも夫の視線は、妻が去っていった扉の方へ、何度も向かいそうになる。


そのたびに夫は自分を押し殺すようにグラスを握り締めた。


しばらくして、控えていた執事の相馬が一歩前へ進み出た。


年齢を重ねた相馬は、夫がまだ何者でもなかった頃から仕えてきた数少ない人間だった。だからこそ、誰よりも彼の変化も、妻の献身も知っている。


「旦那様」


「何だ」


「差し出がましいことを申し上げるようですが……奥様には、もう少しお優しく接して差し上げてもよろしいのではないでしょうか」


言った途端、広間の空気が凍りついた。


夫の目が、ゆっくりと相馬へ向く。


「相馬」


「は」


「お前はいつから、俺に意見できる立場になった」


相馬は一瞬だけ言葉を失ったが、それでも頭を下げたまま続ける。


「出過ぎたことは承知しております。ですが奥様は、昔から旦那様のために――」


「黙れ」


低い一喝が、刃のように飛んだ。


相馬は口を閉ざす。


夫はソファーから立ち上がる。長身が影を落とし、ただそれだけで周囲の使用人たちは息を呑んだ。


「俺の家のことに口を出すな。俺がどう妻を扱おうと、お前がとやかく言うことではない」


「……申し訳ございません」


「情に流されるな。そんな甘さでここに仕えていられると思うなよ」


夫の声音は冷え切っていた。


だがその胸の内では、別の声が荒れていた。


――優しくしろだと?


そんなこと、できるものか。


彼女に優しくしたら最後だ。

彼女の前でだけ弱くなる自分を認めたら、今まで築いたものが崩れる。

冷酷であることで守ってきた自分が、彼女のたった一言、たった一つの笑みで変えられてしまう。


それが恐ろしかった。


夫は自分の手を見た。つい先ほど、その手で妻の顎を持ち上げ、唇を奪った。


あれは侮辱のための口づけだったはずだ。

夫婦らしいことをしてやった、と突き放すためのものだったはずだ。


なのに、触れた瞬間に脳裏をよぎったのは、三年前の小さな屋敷の台所だった。


まだ彼が今ほどの富を持たず、夜遅く帰ってくるたび、彼女が温め直した食事を黙って差し出してくれたこと。

疲れた彼が何も言わずソファーに沈めば、そっとブランケットをかけてくれたこと。

眠れない夜、書斎の灯りの下で一人帳簿を睨んでいた彼に、彼女が小さく「無理をなさらないでくださいませ」と囁いたこと。


あの頃から、彼は知っていたのだ。


自分は、彼女を失えない。


だから妻にした。

だが妻にしたからこそ、余計にどう扱えばいいかわからなくなった。


愛している、などと言えるはずもなかった。

言ってしまえば、自分はもう戻れない気がした。


相馬はなおも頭を下げたまま動かない。


夫は顔を背け、吐き捨てるように言った。


「下がれ。次に同じことを言ったら、執事であっても容赦しない」


「……承知いたしました」


相馬が下がる。


再び静寂が落ちる。だがその静けさは安らぎではなく、張りつめた糸のようだった。


夫はグラスを持ち上げたまま、扉の向こうを見つめる。


今ごろ妻は、何事もなかったように使用人たちへ微笑み、あるいは自室で一人、静かに胸の痛みを飲み込んでいるのだろう。


追い出すつもりなど、ない。


そんなこと、できるはずがない。


彼女がこの屋敷からいなくなることを想像するだけで、喉の奥が焼けるようだった。


けれど呼び戻して、謝ることもできない。


優しくする方法を、彼は知らなかった。


冷酷に生きることでしか、自分を守れなかった男は、

愛する女を前にしてさえ、その愛を傷に変えることしかできない。


シャンデリアの光が揺れる。

豪奢な大広間の中央で、若き主人は誰にも見せぬ顔で目を伏せた。


そして誰にも聞こえぬほど小さな声で、吐き出すように呟いた。


「……どうしろっていうんだ」


その声を聞いた者は、誰もいない。


ただ、閉ざされた扉の向こうにいる妻だけが、

今夜もきっと、彼のために微笑んでいる。

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