表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/53

聞けない心配

相馬が地下室の前を離れ、書斎へ戻ろうとしたときだった。


廊下の角を曲がった先、灯りの落ちた窓辺に、ひとつの影が立っていた。


夫だった。


相馬は思わず足を止める。

まさか、こんな場所で待っているとは思わなかった。

地下室へ続く廊下そのものではない。だが、そこから戻る者を見逃さぬには十分すぎる位置だった。


夫は壁にもたれもせず、ただ静かに立っていた。

表情はいつものように冷えている。けれど、その目だけが、妙に落ち着かなかった。


相馬が一礼する。


「旦那様」


夫はすぐには何も言わなかった。

相馬の後ろ、地下へ続く暗い廊下の先を一瞬だけ見やり、それから低く口を開く。


「……お前、どこへ行っていた」


問いの形を取ってはいたが、知らぬはずがない。

相馬がどこへ行っていたか、夫は承知している。

それでもそう言わずにいられないのは、確かめるためではなく、言葉を探しているからだと相馬にはわかった。


「地下室でございます」


相馬が正直に答えても、夫は咎めなかった。

怒声も、叱責もない。


ただ、ほんのわずかに視線を伏せ、次のひと言を出すまでに間を置いた。


「……そうか」


それきり黙る。

相馬はその沈黙の意味を待った。


やがて夫は、いっそう低い声で言った。


「泣いていたか」


相馬は一瞬、返答に迷った。


その言葉は、若い主人の口から最も聞きにくい類のものだった。

怒っているのか、心配しているのか、どちらにも取れる。

だが本当は、そのどちらでもないふりをしたまま、心配だけを知りたがっているのだとわかる。


「……先ほど私がお会いしたときは、泣いてはおられませんでした」


夫の肩が、ほんのかすかに動いた。

安堵したのか、それとも別の感情か、相馬にも判別はつかない。


だが夫は続けて問う。


「痩せていたか」


その問いはあまりにも率直で、相馬は思わず目を上げた。

夫は視線を逸らしている。まるで正面から聞くのがまずいことのように。


「三日目でございますので、目に見えてやつれたというほどではございません。ですが……お疲れではありました」


「疲れ、か」


「顔色も、あまりよろしいとは申せません」


夫の口元がわずかに強張る。


「食事は」


「召し上がってはおられるようです。残してはおられぬと聞いております」


それを聞いて、夫は目を閉じた。

あの女ならそうするだろう。

出されたものを黙って食べ、文句も言わず、言いつけ通りに待ち続ける。

容易に想像できる分、かえって胸の内がざわつく。


相馬は静かに続けた。


「寒さは、やはりこたえておいでのようでした」


夫の指先がぴくりと動く。


「……そうか」


また、それだけだ。


けれど相馬にはわかった。

本当はもっと聞きたいのだ。

座っていたのか、立てていたのか。

声はしっかりしていたのか。

自分を恨んでいなかったか。

まだ待っているのか。


だがそれを一度に聞いてしまえば、あまりにも露骨になる。

だから夫は、必要最小限の問いだけを選んでいる。


そして結局、また尋ねた。


「何か言っていたか」


相馬は少しだけ沈黙した。


妻は、自分のことより相馬を案じていた。

来ないでくださいと微笑んで言った。

そのことを、そのまま伝えてよいものか迷う。


だが辻褄の合わぬ嘘は、この場ではかえって残酷になる。


「……私のことを案じておられました」


夫の眉がわずかに寄る。


「何だと」


「私が奥様のために動けば、旦那様のお怒りに触れると。ですから、もう来ないでほしいと仰せでした」


夫は黙った。


相馬のために。

自分ではなく、まだ他人を気遣っている。

それがあの女らしいとわかる一方で、夫の胸に何とも言えぬ鈍い痛みを残した。


地下室に入れ、粗末な服に着替えさせ、三日も閉じ込めているのは自分だ。

それでも妻は恨み言ひとつ言わず、相馬の立場を気にしている。


夫は壁際の影に半歩寄り、低く問うた。


「……俺のことは」


相馬はその先を聞き取った。

俺のことは何か言っていたか。

そう続けたかったのだろう。


だが夫は最後まで言わない。


相馬は慎重に答えた。


「旦那様のお気持ちがおさまるなら、いつまでも反省すると仰せでした」


その言葉は、静かに、しかし確実に夫を刺した。


いつまでも。


あの女は本気でそう言う。

見せかけでも、機嫌取りのためだけでもなく、心からそう言ってしまう。

だから厄介なのだ。

だから、会いに行けなくなる。


相馬はここで、ひとつ息をついた。


「旦那様」


「何だ」


「もう、会いに行って差し上げてください」


夫の表情がすっと冷える。


「……誰にものを言っている」


声は冷たい。

だが先ほどまでのような鋭い怒気はなかった。

本気で叱っているのではなく、叱責の形を借りて距離を取っているのだと相馬にはわかった。


だから相馬も引かなかった。


「奥様は待っておられます」


「待たせておけばいい」


即答だった。

あまりにも早く返ってきた言葉は、むしろその裏にある揺らぎを隠すためのものに聞こえる。


相馬は静かに言う。


「扉の音に、何度も期待しておられるようでございました」


夫の目が細くなる。


「見たのか」


「ええ。私が入ったときも、一瞬、旦那様がおいでになったのかと思われたようでした」


そのひと言で、夫の喉元がわずかに動いた。


想像していたことを、現実として突きつけられたのだ。

あの地下室で、妻は扉の音がするたび顔を上げている。

自分が来るかもしれないと、まだ思っている。


それでも夫は言った。


「……だから何だ」


「会いに行っていただきたいのです」


「行かない」


きっぱりと言い切る。

だがその声には、以前のような絶対の硬さがなかった。


相馬はそれを聞き逃さない。


「旦那様」


「行かないと言っている」


今度は少し強くなった。

だが怒鳴るほどではない。

むしろ、自分自身に言い聞かせている響きだった。


夫は窓の外の闇へ目を向けたまま、低く続ける。


「今、俺があそこへ行けば、あの女は何と思う」


相馬は答えなかった。

夫が言葉を重ねるのを待つ。


「自分が弱れば、俺が折れるとでも思うだろう。泣けば、待てば、俺が許すと」


その言い方は冷酷だった。

だが相馬には、それが半ば本心でないこともわかっていた。

妻はそんな駆け引きをする女ではない。夫もそれを知っている。

知っているからこそ、こんな言い方しかできないのだ。


「旦那様、奥様はそのような――」


「わかっている」


珍しく、夫が相馬の言葉を切った。

そしてそのあと、小さく吐き捨てるように言う。


「わかっている……そんなことは」


その声には、怒りではなく疲れが滲んでいた。


廊下の灯りが揺れる。

長い沈黙が落ちる。


相馬はその沈黙の中で、目の前の若い主人が揺らいでいるのを見ていた。

行きたいのだ。

様子を見たいのだ。

だが行けない。


会えば、自分の嫉妬がどれほど醜いものだったかを認めることになる。

会えば、地下室へ入れたことを悔いている自分が露わになる。

会えば、あの女を手放したくないと、また痛いほど思い知らされる。


夫は拳を握ったまま、低く言った。


「……まだだ」


相馬が目を上げる。


「旦那様」


「まだ会いに行くつもりはない」


その言葉は、相馬を拒むためだけではなく、自分を繋ぎ止めるための鎖のようでもあった。


「今行けば、俺の方が折れたことになる」


「折れて、何が悪うございますか」


思わず漏れた相馬の言葉に、夫はようやく相馬を見た。


その眼差しには苛立ちがある。

けれど、以前のように即座に叱り飛ばしはしない。


「相馬」


「旦那様が奥様をお気にかけておられることくらい、もう隠しきれてはおりません」


夫の目が険しくなる。

だが相馬は続けた。


「それでも会いに行かぬと仰るなら、せめて……」


「もういい」


夫は短く遮った。


再び廊下に沈黙が落ちる。


やがて夫は、視線を外したまま言った。


「食事はそのまま運ばせろ」


「……はい」


「火は入れるな。だが、毛布を一枚増やせ」


相馬ははっとした。

夫はすぐに付け加える。


「相馬、お前の判断でだ。俺の命令だとは言うな」


それだけ言って、夫は背を向けた。


完全に優しくすることはしない。

完全に放置することもできない。

その中途半端さこそ、今の夫の揺らぎだった。


相馬は深く一礼する。


「かしこまりました」


夫は数歩歩き出したあと、ふと立ち止まる。

振り返りはしないまま、低く問うた。


「……本当に、泣いてはいなかったのか」


その問いは、先ほどよりもずっと小さかった。

表に出せない心配が、最後にひとつだけ零れたような声だった。


相馬は静かに答える。


「私の前では、泣いてはおられませんでした」


夫はそれ以上何も言わず、今度こそ廊下の奥へ去っていった。


会いに行かない。

揺らいではいる。

心配もしている。

それでもなお、会いに行かない。


その背を見送りながら相馬は思う。


若い主人は、もうとっくに奥様を愛している。

だがその愛を認めるより、冷酷であり続ける方をまだ選んでいる。

そのせいで奥様がどれほど傷ついているかを知りながら、それでも。


相馬は胸の奥に重いものを抱えたまま、地下室へ送る毛布の手配をしに歩き出した。


一方、地下室では妻がまた、扉の向こうの小さな物音に顔を上げていた。


来るかもしれない。

そう思ってしまう癖が、まだ消えない。


けれど今夜も、夫は来なかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ