待つことの痛み
地下室での四日目から六日目は、もはや一日ずつ切り分けて感じられるものではなくなっていった。
朝が来ているのか、夜が過ぎたのか。
この場所ではそれすら曖昧だった。
小さな明かりの色も、石壁に沈む湿った冷気も、何ひとつ変わらない。
運ばれてくる食事が二度あることで、ようやく時間が進んでいるのだとわかるだけだった。
四日目の朝、妻はいつものように扉の方を見た。
音がしたからだ。
鍵に触れるかすかな気配。
足音。
扉の前で人が止まる、あのわずかな間。
それだけで胸が反応するのは、もう癖になっていた。
旦那様かもしれない。
そう思って顔を上げる。
立ち上がる。
姿勢を整える。
そして、違う。
食事を運ぶメイドが無言で盆を置き、目も合わせずに去っていく。
その一連の流れが終わるたび、妻の胸には小さな落胆が落ちる。
四日目になると、その落胆はもう驚きではなく、静かな痛みになっていた。
来ない。
あの方は今日も来ない。
その事実を確かめるために扉の音を聞いているようで、次第に待つことそのものが苦しくなっていった。
地下室は寒かった。
最初の頃より毛布が一枚増えていたが、それで十分に温まるわけではない。
石の冷たさは床からも壁からも滲み、夜になればそれは骨の奥まで染み込んだ。
粗末な服の布地は固く、寝ても休まらない。
肩はこわばり、足先の感覚はときどきひどく鈍くなる。
けれど本当につらいのは、寒さだけではなかった。
静かすぎるのだ。
誰も話しかけない。
食事を運ぶメイドたちは言葉を禁じられている。
「ありがとうございます」と妻が口にしても、返事はない。
足音と、盆を置く音と、扉が閉まる音。それだけ。
その音が消えれば、世界から自分だけが取り残されたような静寂が戻る。
五日目になるころには、妻は自分の呼吸音すら耳障りに感じるようになっていた。
衣擦れの音がやけに大きい。
椅子を引く小さな軋みさえ、この部屋では異様に響く。
何も聞こえない中で、耳だけが扉の向こうの気配を探し続ける。
誰かが通る。
遠くで物が動く。
それがこちらへ来る足音ではないとわかっていても、胸のどこかが反応してしまう。
期待して、違って、また静かになる。
その繰り返しが、少しずつ心を削っていった。
四日目の終わりには、まだ「会いたい」という思いがはっきりしていた。
五日目には、それが「どうして来てくださらないのだろう」という寂しさに変わった。
六日目になると、その寂しさはもっと鈍いものになっていく。
待つ。
期待する。
落胆する。
それを何度も繰り返すうち、心が同じ形で痛むことに疲れてしまったのだ。
扉の音がしても、すぐには立ち上がれないことが増えた。
旦那様かもしれない、と思う。
けれどその思いに飛びつくのが怖くなる。
違ったときの小さな痛みが、もう積もりすぎていた。
だから椅子に座ったまま扉を見る。
胸だけが先に反応し、身体は少し遅れる。
それでも結局、違うとわかると、何もなかったように膝の上へ手を戻すしかない。
待つこと自体が、苦痛になっていった。
妻はそれに気づいても、やめられなかった。
待たなければ、もっと恐ろしいことを考えてしまうからだ。
本当に見放されたのではないか。
このまま忘れられてしまうのではないか。
ここで反省していても、もう意味がないのではないか。
そんなことを考え始めれば、心が壊れてしまいそうだった。
だから、まだ待つ。
待っていれば、いつか来てくださるかもしれない。
そう信じることだけが、かろうじて妻の心を繋ぎ止めていた。
けれど六日目には、その信じる力さえ擦り減っていく。
食事を運ぶ盆を前にしても、すぐには手が伸びない。
眠っていたのか目を閉じていただけなのか、自分でもわからない時間が増える。
明かりの下で手を見ても、それが何刻前と同じ手なのか、もう感覚が曖昧だった。
昨日の食事は昼だったのか夜だったのか。
今は朝なのか夕方なのか。
数えていたはずの日数さえ、途中で確信が持てなくなる。
四日目、五日目、六日目。
その区別はもう、食事の回数と、眠れぬまま過ごした長さでしかわからない。
感情も少しずつ摩耗していった。
泣きたいほど寂しいのに、涙がすぐには出ない。
苦しいのに、声も出ない。
愛している気持ちはまだ胸の底にある。
けれどその上に、冷えと静寂と待ち続けた疲れが何層にも積もり、まるで厚い布に包まれたように鈍くなっていく。
それでも、旦那様のお名前を心の中で呼ぶことだけはやめられなかった。
旦那様。
旦那様。
どうか、もう。
その願いは祈りのようでもあり、助けを求める声のようでもあった。
だが地下室の石壁は何も返さない。
――――
一方その頃、夫は屋敷の上で、日に日に落ち着きを失っていた。
四日目にはまだ、自分は正しいことをしていると言い聞かせていられた。
妻に自分の立場を思い知らせるためだ。
軽率な振る舞いへの罰だ。
甘やかせば、あの女はますます自分を惑わせる。
そう繰り返していれば、何とか自分を保てた。
だが五日目になると、その理屈に綻びが見え始める。
食事は足りているのか。
寒すぎはしないか。
座っているだけで体力を削られてはいないか。
知りたくないのに、気になる。
気になるくせに、確認しに行けない。
地下室へ続く廊下の近くまで来て、足を止めたことも一度ではなかった。
だが結局、そこから先へは行かない。
行けば終わる。
自分の怒りも、罰も、体裁も。
そして何より、会った瞬間に許してしまいそうな自分が怖かった。
六日目には、罪悪感はもう無視しきれないものになっていた。
書類を前にしても、目が滑る。
報告を聞いていても、頭に入らない。
ふとした瞬間に思い浮かぶのは、地下室の中の妻だ。
粗末な服を着せられた姿。
寒さに耐えて座っている姿。
扉の音に顔を上げ、違うとわかってまた静かに目を伏せる姿。
見たわけではない。
けれど想像できてしまう。
それが罪悪感となって胸に刺さるたび、夫はますます地下室から遠ざかった。
逃げているのだと、自分でもわかっていた。
会いに行けば、あの女を傷つけているのが自分だと、改めて突きつけられる。
嫉妬から始まったことだと認めねばならなくなる。
自分が冷酷であろうとしているだけで、実際には彼女を失うのが怖くてたまらない男だと、知らされてしまう。
だから逃げる。
仕事に逃げる。
沈黙に逃げる。
命令を重ねることで、まだ自分が主導権を握っているふりをする。
だが逃げれば逃げるほど、罪悪感は濃くなる。
六日目の夜、夫は一人きりの書斎で長く灯りを消せずにいた。
窓の外は暗く、屋敷は静まり返っている。
そのどこか下で、妻はまだ地下室にいる。
もう六日だ。
その事実が、鈍い重みとなって胸に沈む。
迎えに行けばいい。
もう十分だと言えばいい。
ただそれだけのことが、なぜできないのか。
夫は自分の手を見つめる。
この手で富を築いた。
何も持たぬところから這い上がった。
奪われぬために、弱みを見せぬために、冷たく生きてきた。
なのに、たった一人の女のことで、こんなにも揺らいでいる。
「……俺は」
そこまで呟いて、言葉が続かない。
謝ることなどできない。
優しくするのも怖い。
だがこのままにしておくのも苦しい。
そのどちらにも踏み切れず、夫はただ立ち尽くした。
地下室では、妻がまた扉の方を見ていた。
音がした気がしたのだ。
けれどそれは気のせいで、すぐに静寂が戻る。
もう期待することに疲れている。
それでも完全にはやめられない。
待つことが苦しい。
けれど待つのをやめることは、もっと怖い。
そうして四日目から六日目は過ぎていった。
寒さの中で。
言葉のない静寂の中で。
来ない人を待ち続ける苦痛の中で。
妻の感情は少しずつ擦り減り、夫の罪悪感は少しずつ重くなる。
けれど二人の距離は、まだ縮まらない。
夫は気にかけながら逃げ、妻は傷つきながら待ち続けた。
そのすれ違いだけが、地下室の冷たさよりも深く、六日目の夜まで二人を閉じ込めていた。




