七日目の熱
地下室で迎える七日目の朝は、これまででいちばんつらかった。
妻は、目を覚ました瞬間におかしいとわかった。
身体が重い。
まるで胸の上に石を載せられているようで、息をするだけでも少し苦しい。
頭の奥が熱く、こめかみのあたりが鈍く脈打つ。
喉は乾いているのに、指先は冷えきっていて、自分の身体が熱いのか寒いのか、それすらうまくわからなかった。
起き上がろうとしただけで、視界がぐらりと揺れる。
「……っ」
思わず椅子の背に手をついた。
息を整えようとしても、胸の内側が熱にあぶられるようで落ち着かない。
額に手を当てれば、自分でもはっきりわかるほど熱かった。
高熱だった。
地下室の冷えと、ろくに休めない夜と、少ない食事。
それらが積もり積もって、とうとう身体が限界を迎えたのだろう。
けれど妻は、そこでしばらく目を閉じたあと、ゆっくりと背筋を伸ばした。
旦那様に知られてはいけない。
最初に浮かんだのは、自分のつらさではなかった。
心配をかけたくない、ではなく、迷惑をかけたくない。
旦那様のお気持ちをさらに煩わせたくない。
その思いの方が、熱に浮かされる頭の中でも先に立った。
もし知られれば、旦那様はお怒りになるかもしれない。
地下室へ入れておくだけで済んだはずのことが、大事になってしまう。
医師を呼ぶのか、使用人たちが慌ただしく動くのか、それとも相馬さんがまた旦那様に進言するのか。
そんなことになれば、きっとあの方のご負担になる。
それは嫌だった。
自分が苦しいことよりも、旦那様に余計な厄介事を増やしてしまうことの方が、妻にはつらく思えた。
椅子から立ち上がろうとする。
だが足元がふらついて、すぐに壁へ手をつかなければならなかった。
石の冷たさが掌に触れる。熱い身体にはその冷たさが一瞬だけ心地よく、けれど次の瞬間にはぞくりと悪寒が駆け上がる。
唇が震えた。
寒い。
いや、熱い。
そのどちらもが同時に襲ってくる。
妻は荒くなりかける呼吸を抑え、何度かゆっくり息を吸った。
せめて、食事を運んでくるメイドたちには気づかれないようにしなければならない。
顔色を見られても、声で悟られてもいけない。
そう思うのに、身体はもう言うことをきかなかった。
時間が経つにつれて、熱はさらに上がっていく。
ぼんやりとした意識の中で、妻は何度も目を閉じそうになる。
だが眠ってしまうのが怖くて、無理にでも起きていようとした。
眠ったまま倒れていたところを見つけられたら、隠しようがない。
やがて、朝の食事を運ぶ時間になった。
扉の外に足音が止まる。
いつものように、その音に胸が反応した。
七日目の朝になっても、身体が弱り切っていても、旦那様かもしれないという期待だけは、まだ完全には消えていなかった。
だがもちろん、来たのはメイドだった。
妻は立ち上がろうとした。
立って、いつものように微笑み、礼を言わなければならない。
それだけのことが、今朝はひどく遠かった。
椅子に手をつき、なんとか身体を起こす。
視界が白く霞む。
それでも扉が開くころには、かろうじて立っていた。
メイドが盆を持って入ってくる。
その若い顔が、妻を見た瞬間にわずかに強張った。
気づかれた。
そう直感した妻は、すぐに唇に微笑みをのせた。
「ありがとうございます」
だが声がかすれていた。
自分でもわかるほど弱い声だった。
メイドがはっとしたように顔を上げる。
妻の頬は熱で赤く、額にはうっすらと汗がにじんでいる。
明らかに普段とは違う。
妻はその視線を見て、そっと首を横に振った。
「何でも……ありません」
規則では会話をしてはならない。
メイドは本来、答えることも許されない。
けれどこのまま下がれば、きっと誰かに知らせるだろう。
それを察した妻は、ふらつきながらも一歩だけ近づいた。
「お願い、いたします」
声は小さく、熱に掠れていた。
「旦那様には……まだ、申し上げないでくださいませ」
メイドの目が揺れる。
命令に背くことへの恐れと、目の前の女をこのままにしてよいのかというためらいとが、ありありと浮かんでいた。
妻は微笑もうとした。
だが熱のせいでその笑みはひどく弱く、今にも消えてしまいそうだった。
「ご心配には及びません。少し、熱があるだけですから……少し休めば、よくなります」
嘘だと、自分でもわかっていた。
少し休んだくらいで引く熱ではない。
身体の芯から崩れていくような、嫌な熱だった。
それでも口にする。
旦那様に迷惑をかけたくないから。
旦那様のお手を煩わせたくないから。
旦那様のご負担になる前に、自分で耐えきりたかったから。
愛しているからこそ、最後まで相手の平穏を優先してしまう。
それが妻のどうしようもない本心だった。
メイドは唇を噛み、うつむいたまま立ち尽くしている。
妻はさらに静かに続けた。
「もし、私のことで屋敷が騒がしくなれば……旦那様のお気持ちをまた乱してしまいます。
それだけは、どうしても避けたいのです」
旦那様のお気持ちを。
熱に浮かされた朝でさえ、彼女の言葉はそこへ戻る。
自分がどれだけ苦しくても、まず考えるのは夫の機嫌、夫の負担、夫の心の動きだった。
「どうか……お願いいたします」
そう言って軽く頭を下げようとした瞬間、妻の膝がかくりと揺れた。
メイドが思わず手を伸ばしかける。
だが妻は壁へ手をついて、かろうじて倒れるのをこらえた。
「奥様……」
規則を破って、メイドの口から小さな声がこぼれる。
妻はその呼びかけに、やっとのことで目を上げた。
ぼんやりと滲む視界の中でも、相手が怯えているのはわかった。
だからこそ、安心させるように微笑もうとする。
「大丈夫です」
その声は、もうほとんど息に近かった。
「……旦那様には、まだ」
それが最後まで言い切れたかどうか、自分でもわからなかった。
熱はさらに上がっていた。
頭が重く、身体の芯が遠くなる。
それでも妻は、崩れ落ちる直前まで、誰にも知らせぬようにと気を張り続けた。
自分のためではない。
旦那様のために。
もしこの苦しさが旦那様のお気持ちを少しでも早くおさめるなら、耐えたい。
もしこのまま静かにしていれば、あの方に余計なご心配をかけずに済むなら、それでよかった。
愛が先にある。
その愛が、今や彼女の身体よりも先に限界へ触れようとしていた。
扉の向こう、屋敷の上階では、夫はまだ何も知らない。
七日目の朝。
地下室で妻が高熱に苦しみ、意識を保つだけで精一杯になっていることも。
それでもなお、自分に知られまいと口止めしていることも。
まだ、知らなかった。




