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遅すぎた駆け足

七日目の朝、地下室の前から離れた若いメイドは、しばらく廊下で立ち尽くしていた。


胸が早鐘のように鳴っている。


奥様からは、旦那様にはまだ知らせないでほしいと頼まれた。

あのかすれた声で、倒れそうになりながら、それでもまず旦那様のお気持ちを気にしておられた。


けれど、あれを“少し熱があるだけ”で済ませてよいはずがなかった。


あの顔色。

額の汗。

焦点の合いきらぬ目。

膝が崩れかけた、あの弱り方。


このまま黙っていれば、取り返しのつかないことになるかもしれない。


メイドは何度も迷った末、意を決して相馬を探しに走った。


相馬は朝の指示を終えたところだった。

青ざめた顔で駆け込んできたメイドを見て、ただならぬことが起きたのだとすぐに悟る。


「どうした」


メイドは息を切らしながら、声を震わせた。


「奥様が……地下室で……ひどいお熱で……っ」


相馬の顔色が変わる。


「何だと」


「旦那様にはまだ申し上げないでほしいと……奥様は仰いました。でも、とても……とても普通ではございません」


相馬は一瞬だけ目を閉じた。


あの方なら、そう言う。

自分が倒れかけていても、まず主人への負担を気にする。

それがわかるからこそ、胸が詰まった。


「わかった」


相馬は即座に踵を返す。

向かう先は地下室ではない。まず、夫のもとだった。


書斎の扉を開けると、夫は机に向かっていた。

だがここ数日まともに仕事が手についていないことを、相馬は知っている。


「旦那様」


その声に、夫は眉をひそめて顔を上げた。


「何だ」


相馬は一礼もしきらぬうちに告げる。


「奥様が、地下室で高熱を出しておられます」


その瞬間、夫の表情が止まった。


まるで言葉の意味が一拍遅れて胸に届いたように、ほんの短い沈黙が落ちる。

次の瞬間には、椅子が強く鳴った。


「……何?」


立ち上がった夫の声は低い。

だがその低さの中に、隠しようのない揺れがあった。


「今朝、食事を運んだ者が、奥様のご様子を見て――」


「いつからだ」


遮るように問う。

普段の冷たく整えられた声音ではない。

焦りがそのまま表へ滲んでいた。


「はっきりとは。ただ、今朝の時点ではかなり――」


そこまで聞くなり、夫はもう動いていた。


書斎の扉を開け放ち、廊下へ出る。

相馬が後を追う。


屋敷の使用人たちは、その姿に息を呑んだ。

若き主人が走るのを、誰も見たことがなかったからだ。


普段の夫なら、どれほど急ぎでも足音ひとつ乱さない。

威厳を崩さず、感情を顔に出さず、冷たく静かにすべてを支配する。


だが今は違った。


廊下を速く、ほとんど駆けるように進む。

角を曲がるたび、裾が強く翻る。

その顔には、初めて隠しようもなく動揺が浮かんでいた。


地下室へ続く階段の前で、夫は足を止めない。

暗く冷たい石段を、一気に下りていく。


胸の内は、言葉にならない焦燥でいっぱいだった。


高熱。

地下室で。

七日も。


なぜもっと早く行かなかった。

なぜ今まで放っておいた。

なぜ――


考えたくもない問いが、ひとつ残らず自分へ返ってくる。

だが今は、それに答える暇などなかった。


ただひとつ。


間に合え。


その思いだけで、夫は地下室の扉の前へたどり着いた。


鍵が開くのももどかしく、自ら扉を押し開ける。


中は薄暗く、冷え切っていた。

湿った石の空気が肌を刺す。


そしてその奥、壁際で、妻が倒れていた。


椅子から崩れ落ちたのだろう。

粗末な服のまま、細い身体を横たえ、片手が力なく床へ投げ出されている。

頬は熱に赤く、それでも唇の色は悪い。

呼吸は浅く、苦しそうに揺れていた。


夫の顔色が変わった。


「……おい」


返事はない。


夫は迷うことなく駆け寄り、床に膝をついた。

その膝が冷たい石に当たる音が、地下室に硬く響く。


「おい、しっかりしろ」


妻の肩へ手を伸ばした瞬間、その熱さに夫の指が震えた。


熱い。

異様なほど熱い。


「旦那、さま……」


うっすらと瞼が動く。

だが視線は定まらない。

意識はもう朦朧としているのがわかった。


それでも妻は、夫の顔を見ようとするように、わずかに首を動かした。


「申し訳……ございません……」


その第一声が謝罪だったことに、夫の胸の奥で何かがひどく軋んだ。


「しゃべるな」


声が荒くなる。

自分でも抑えられないほどだった。


妻は熱に浮かされたまま、かすかに微笑もうとした。

こんなときでさえ、彼を安心させようとするように。


「旦那様に……ご迷惑を……」


「黙れ」


叱責の形をしていても、その実、声は震えていた。


迷惑だと?


こんな状態になるまで閉じ込めておいて、何を今さら。

迷惑をかけたのは妻ではない。

迷惑どころか、傷つけ、追いつめたのは自分だ。


その現実が、倒れている妻の姿となって目の前に突きつけられていた。


夫は片腕を妻の背へ、もう片腕を膝裏へ差し入れる。

軽い。


驚くほど軽かった。

たった七日でここまで弱らせたのかと、自分の腕の中の重みのなさが、残酷に教えてくる。


抱き上げられた妻は、熱のせいで抵抗する力もない。

ただわずかに眉を寄せ、息を乱す。


「相馬!」


夫の声が地下室に響く。


すぐ後ろまで来ていた相馬が一歩前へ出る。


「医師を呼べ。すぐだ。今すぐにだ」


「はっ」


「湯も、部屋も、全部整えろ。誰でも使っていい、とにかく急げ」


命令が矢継ぎ早に飛ぶ。

そこにいつもの冷静さはなかった。

使用人たちは後に、この日の主人の声を一生忘れないだろう。

それほどまでに露骨な焦りと動揺が、隠しようもなく滲んでいた。


夫は妻を抱いたまま立ち上がる。

その腕に、彼女の熱が焼きつくように伝わる。


地下室を出て階段を上る間も、妻の呼吸は苦しげだった。

夫は何度も腕の中を覗き込む。


「おい、目を開けろ」


妻の瞼がかすかに震える。

だがまた閉じかける。


「寝るな」


その声は命令口調なのに、どこか懇願にも似ていた。


妻はぼんやりとしたまま、熱い吐息をこぼす。


「……旦那様」


その呼びかけだけで、夫の喉が詰まった。


まだ自分を呼ぶのか。

こんな目に遭わせた相手を。

熱にうなされながらも、こうして。


夫は唇をきつく結び、抱く腕に力を込める。


廊下へ出たとき、待機していた使用人たちが一斉に道を開けた。

誰もが息を呑んでいた。

主人の腕の中にいる奥様の衰弱ぶりと、主人自身の顔色の悪さに。


夫は誰を見ることもなく、まっすぐ妻の部屋へ向かう。


その歩みは速い。

ほとんど走っているに近い。

彼の中では、もう体裁も威厳も消えていた。


ただ、間に合わせたい。

この腕の中の熱を、少しでも早くどうにかしたい。

それだけだった。


部屋へ着くと、夫は自ら寝台へ妻を横たえた。

粗末な服の裾が乱れ、熱に浮かされた頬に髪が張りついている。

その姿は痛々しく、見るだけで胸が締めつけられる。


夫は寝台の脇に膝をつき、妻の額へ手を当てた。

やはり熱い。

信じたくないほどの熱だった。


「……何をしていた」


吐き捨てるようなその言葉は、本当は妻を責めたものではなかった。

自分自身へ向けたものだった。


なぜ行かなかった。

なぜ七日も。

なぜ、あの地下室に。


妻は意識の底でかすかに声を聞いたのか、微かに唇を動かした。


「すみま……せん……」


また謝る。


夫は目を伏せ、初めてはっきりと顔に苦しさを滲ませた。


この瞬間、屋敷の誰が見てもわかっただろう。

若い主人は、もう冷静でも冷酷でもいられなかった。


露骨なほどに動揺していた。

妻が倒れている。

自分のせいで倒れている。


その事実が、ついに彼の逃げ場を奪ったのだった。

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