看病の夜、壊したもの
その夜、妻の部屋はひどく静かだった。
昼の騒ぎが嘘のように、今はもう足音も声も遠い。
医師は診察を終え、薬と冷やした布の替え方を細かく言い残して去っていた。
熱は高い。
衰弱も激しい。
数日、いや一週間近くに及ぶ寒さと栄養不足、心身の消耗が一気に表へ出たのだろう、と。
部屋には最低限の灯りだけが落とされていた。
重いカーテンの向こうはすでに夜が深く、寝台の上の妻だけが、その熱に浮かされるようにかすかな息を繰り返している。
夫は寝台の脇から離れなかった。
相馬が「少しはお休みください」と言っても、首を縦には振らなかった。
誰かに任せる気になどなれない。
任せてよいはずもないと、どこかで思っていた。
この熱の原因が自分であるなら、せめて今夜くらい、自分の手で看るべきだと。
たらいの水に浸した布を絞り、妻の額へそっとのせる。
熱で火照った肌に触れるたび、胸の奥が鈍く痛んだ。
熱い。
あの地下室で、この身体は何日も冷えにさらされていたはずなのに、今は焼けるように熱い。
その矛盾が、余計に彼の罪を際立たせている気がした。
妻は意識がはっきりしていない。
瞼は閉じられたまま、ときおり苦しそうに眉が寄る。
呼吸も浅く、何か悪い夢の中を彷徨っているようだった。
夫は水差しを置き、寝台の縁へ腰を下ろす。
暗がりの中で、寝苦しそうに身じろぎする妻の顔を見つめることしかできない。
昼間は、ただ助けなければという一心だった。
だが夜になり、静けさが戻ると、別のものが押し寄せてきた。
後悔だった。
なぜ行かなかった。
四日目も。五日目も。六日目も。
気になっていた。罪悪感もあった。
それでも自分は逃げた。
会えば折れてしまうからと。
嫉妬の醜さを認めるのが嫌だったからと。
冷酷でいなければ、自分ではなくなる気がしたからと。
その結果が、これだ。
目の前で熱にうなされる妻。
ひどくやつれた頬。
夢の中ですら休まらぬ、かすかな呻き。
夫は両手を組み、額を押さえた。
そのときだった。
「……ごめんなさい……」
微かな声が落ちた。
夫ははっと顔を上げる。
妻の唇が、ほんのわずかに動いていた。
目は閉じたまま。
意識のないままの、うわ言だった。
「ごめんなさい……旦那様……」
謝っている。
こんな状態で、まだ。
自分を痛めつけた相手に、無意識の中でまで謝っている。
夫の喉がひどく狭くなる。
「……謝るな」
そう言っても、妻には届かない。
それでも言わずにいられなかった。
妻は苦しげに息をつき、顔をわずかに横へ向けた。
熱に濡れた髪が頬へ張りつく。
夫は震える指でそれをそっと払う。
「……ひとりは……こわい……」
今度のうわ言は、ひどく幼い響きだった。
夫の手が止まる。
ひとりは怖い。
そのひと言が、刃物のように胸へ入ってきた。
地下室。
冷たい石の壁。
誰も話さない。
食事を運ぶ者すら沈黙し、扉の音に期待しては裏切られる日々。
その中で、妻はひとりだった。
どれほど寂しかったのか。
どれほど怖かったのか。
それを想像しないようにしてきた自分を、今になって殴りつけたくなる。
夫は思わず寝台に身を乗り出した。
「……もう、ひとりにしない」
囁くようにそう言った声は、自分でも驚くほど掠れていた。
だが妻には聞こえない。
聞こえたとしても、熱に浮かされた意識の中でほどけてしまうだろう。
それでも言わずにいられない。
もうひとりにしない。
ひとりにしたのは自分なのに。
妻はまた小さく何かを呟いた。
今度はうまく聞き取れない。
夫は自然と耳を寄せる。
かすれた息の合間に、ようやくその言葉が形になる。
「……愛して……います……」
時間が止まったようだった。
夫は微動だにできなかった。
愛しています。
無意識の中で。
誰に聞かせるでもなく。
取り繕う余地もない、熱に浮かされた本音として。
妻はそう言った。
愛しているのだ。
こんな目に遭わされてなお。
地下室へ閉じ込められ、寒さと孤独の中で心身をすり減らしてなお。
それでもこの女は、自分を愛している。
その事実が、夫の中で何かを決定的に壊した。
今まで、どこかで誤魔化していた。
自分はただ不器用なだけだと。
優しくできないだけで、手放したくないから囲っているのだと。
嫉妬も冷酷も、愛し方を知らないせいなのだと。
違った。
これは“不器用”で済むことではない。
自分が壊したのだ。
この女の自然な笑顔を。
安心して眠れる夜を。
食卓につく場所を。
庭へ出て風に触れる自由を。
待つだけでよかった心を。
そしてついには、身体まで。
冷酷であることで守ってきたつもりだった。
だが守っていたのは自分の臆病さだけだった。
変わることを恐れ、弱くなることを恐れ、愛していると認めることを恐れた結果、壊したのは彼女の方だった。
夫は口元を押さえた。
息が苦しい。
胸の内がぐしゃぐしゃにかき回される。
寝台の上で、妻はまだ熱にうなされている。
苦しげに呼吸しながら、時折かすかに眉を寄せる。
その顔を見るたび、夫は逃げ場を失っていく。
「……俺が」
声にならない。
俺が壊した。
その言葉を、ようやく胸の奥で認めた瞬間、激しい後悔が押し寄せた。
遅すぎる。
遅すぎるが、それでも今、はっきりわかる。
彼女が彼の前で自然に笑わなくなったのは、最初から彼女がそういう女だったからではない。
彼がそうさせたのだ。
彼女が自分の機嫌ばかり気にするようになったのも。
叱責されても微笑むようになったのも。
愛していると言葉にせず、ただ役目としてそばにいようとしたのも。
全部、自分がそう追い込んだ。
夫は寝台の縁へ崩れるように座り込み、妻の手を取った。
細い。
熱い。
そして弱い。
その手が、かつて小さな屋敷で食事を整え、灯りをともし、疲れた彼に湯を差し出していた。
彼がどんなに尖っていても、怯えず、媚びず、ただ静かにそばにいた手だ。
それを、自分はこんなふうにした。
「……すまない」
初めてだった。
誰にも聞かせぬ声で、妻に謝ったのは。
だがそれだけでは到底足りないこともわかっていた。
夫は妻の手を額へ押し当てるようにして、目を閉じた。
肩がわずかに震える。
泣いているわけではない。
泣き方など知らない。
だが今の彼は、冷酷な主人でも、威厳ある若き富豪でもなかった。
ただ、自分の手で愛する女を壊したと知ってしまった男だった。
妻はまた小さく息を漏らす。
そのたび夫は顔を上げ、額の布を替え、水を含ませた唇を湿らせ、少しでも楽になるようにと手を尽くす。
もう遅いかもしれない。
それでも何もしないよりましだと思うしかなかった。
夜は深くなる。
灯りの下、夫は妻のそばから一歩も動かなかった。
熱にうなされるたび名を呼び、手を握り、ひとりではないと伝えるように何度も触れる。
けれど彼自身の胸の中では、ひとつの理解だけが何度も繰り返されていた。
自分が壊した。
愛しているくせに、守るどころか壊した。
その後悔は激しく、鋭く、今さら逃げ場を与えなかった。
そしてその夜、初めて夫は知る。
冷酷でいることよりも、後悔しながら愛する人の寝息を待つことの方が、ずっと苦しいのだと。




