目覚めても戻らない
夜が明けても、夫はほとんど眠っていなかった。
妻の寝台の傍らで、一晩中、熱を測るように額へ触れ、苦しげに乱れる呼吸に耳を澄ませ、何度も医師の言葉を思い返した。
熱は夜半を過ぎてようやく少しだけ下がり始めていたが、それで安心できるはずもない。
夫にとっては、妻がそこにいることそのものが、まだ危うい奇跡のように思えた。
朝の光が厚いカーテンの隙間から細く差し込む。
薄い金色の筋が寝台の端を照らし、妻の頬の上にかすかな明るさを落とした。
そのときだった。
閉じられていた瞼が、ほんのわずかに震えた。
夫の身体が強張る。
「……おい」
声は掠れていた。
一晩中、何度も名を呼び続けた喉だった。
妻の睫毛がまた揺れ、ゆっくりと目が開く。
熱に潤んだ瞳はまだ焦点が定まりきらず、朝の光の中をぼんやりと見ていた。
それでも、目覚めた。
その事実だけで、夫の胸の奥に何かが一気にほどけた。
「……っ」
言葉にならない息が漏れる。
次の瞬間には、夫は寝台へ身を乗り出していた。
「よかった……」
ほとんど本能だった。
頭で考えるより先に、腕が動いていた。
夫は妻の上半身をそっと抱き起こし、そのまま強く抱きしめた。
昨夜、自分のせいでこの腕の中から失いかけたものを、今ようやく確かめるように。
「よかった、目が覚めた……」
低い声は震えていた。
屋敷の誰にも決して見せたことのない、露骨な安堵だった。
妻の身体はまだ熱を残している。
細く、弱く、壊れそうなほど軽い。
それでも確かに温かく、息をしている。
助かった。
夫はそう思った。
助かったのだと。
まだ間に合ったのだと。
けれど。
腕の中の妻は、何の反応も返さなかった。
抱きしめられたことに驚くでもない。
逃れようとするでもない。
名前を呼ぶでもない。
細い指が服を掴むこともなければ、身じろぎひとつない。
ただ、妻は開いた目のまま、どこを見ているのかわからない顔でじっとしていた。
夫の呼吸が止まる。
ゆっくりと腕を緩め、妻の顔を覗き込む。
「……おい」
妻は夫を見ているようにも見える。
だがその視線には、これまで必ずあったものが何もなかった。
怯えも。
戸惑いも。
微笑もうとする気配も。
彼の機嫌をうかがう緊張も。
何もない。
表情がなかった。
頬の熱のせいで血色はまだ悪くないのに、顔そのものは妙に白く見えた。
感情だけが、きれいに拭い去られてしまったような無表情だった。
夫は喉を鳴らす。
「……わかるか。俺だ」
返事はない。
妻の唇が少し開く。
だが言葉にはならない。
何かを言おうとしたのか、それともただ呼吸をしただけなのかもわからない。
「おい」
夫の声が、今度ははっきりと揺れた。
「聞こえているのか」
妻は瞬きした。
それだけだ。
反応がない。
あれほど待ち続けた目覚めだったのに。
熱が下がり、目を開けたのに。
それなのに、戻っていない。
そのことが、数瞬遅れて夫の胸へ落ちてきた。
助かったのではないのか。
目を覚ましたのだから、戻ったのではないのか。
違う。
そうではない。
夫の中の安堵が、音を立てて別のものへ変わっていく。
恐怖だった。
昨夜までの恐怖は、失うかもしれないという恐怖だった。
けれど今、目の前にあるのはもっと質の悪いものだった。
生きている。
目を開けてもいる。
それなのに、自分の知る彼女がここにいないかもしれないという恐怖。
夫は思わず妻の肩をそっと掴んだ。
「……どうした。どこがつらい」
返事はない。
「何か言え」
声が少し強くなる。
だがそれは怒りではなく、怯えを押し隠すための強さだった。
妻の瞳が、ようやくほんの少しだけ夫へ向いた。
けれどその目の奥は、空虚なほど静かだった。
何かが擦り切れてしまった人間の目だった。
地下室での七日間。
寒さ、静寂、孤独、待ち続ける痛み。
それらが彼女の心をどれほど削ったのか、夫はここで初めて形として突きつけられる。
熱だけではない。
衰弱だけでもない。
心まで、限界を越えてしまっている。
夫はその事実を理解しきれぬまま、ただ妻の顔を見つめる。
昨夜のうわ言を思い出す。
ごめんなさい。
ひとりは怖い。
愛しています。
あれほどむき出しの本音が、今はどこにも見えない。
愛も、怖れも、謝罪も、すべて言葉になる前に凍りついてしまったようだった。
「……お前」
夫の声が掠れる。
「俺がわからないのか」
その問いに対しても、妻は何も答えなかった。
しばらくして、ようやく唇がごくわずかに動く。
だが出てきたのは、言葉にならない息だけだった。
無表情。
無言。
無反応。
その現実が、夫の胸をじわじわと締め上げていく。
助かった。
それで終わりではなかった。
むしろ、ここからなのだ。
自分が壊したものは、熱が下がれば戻るような単純なものではない。
命が助かったからといって、心まで元に戻るわけではない。
今さらになって、その当然のことが恐ろしく思えた。
夫は再び妻を抱き寄せようとして、手を止めた。
腕の中で硬くもならず、寄り添いもせず、ただ何の反応もない相手を前にすると、その行為さえ一方的なものに思えて怖くなった。
昨夜までは、せめて熱にうなされながらも「旦那様」と呼んでくれていた。
今はそれすらない。
呼ばれない。
見つめられない。
何も返ってこない。
それは、怒鳴られるより、泣かれるより、責められるより、ずっと恐ろしかった。
夫はゆっくりと寝台の縁へ座り直し、両手で顔を覆いたくなる衝動を堪えた。
だが堪えきれず、低く息を吐く。
「……違うだろう」
誰に向けた言葉か、自分でもわからない。
妻にか。
自分にか。
それとも、助かったのだからもう大丈夫だと思いかけた、ほんの一瞬前の愚かな安堵にか。
違う。
助かっただけだ。
戻ったわけではない。
夫は震える手を伸ばし、今度は壊れ物に触れるように、妻の指先へそっと触れた。
冷たくはない。
生きている。
ここにいる。
なのに遠い。
こんなにも近くにいるのに、自分では届かない場所へ行ってしまったような遠さだった。
「……おい」
もう一度だけ呼んでみる。
妻はゆっくり瞬きをした。
それだけだった。
夫の胸の内で、安堵は完全に消えていた。
その代わりに広がるのは、新しい恐怖だった。
失うかもしれないという恐怖ではない。
もうすでに、自分はこの人の中の何かを失わせてしまったのではないかという恐怖。
そして、その失わせたものが、二度と戻らないかもしれないという恐怖。
朝の光は静かに差し込んでいる。
屋敷は何も変わらぬ朝を迎えている。
けれど寝台の脇にいる夫だけは、昨夜までとはまるで違う場所へ立たされていた。
妻は助かった。
だが、“戻った”わけではない。
その現実を前にして、若い主人は初めて、自分の後悔がまだ始まりに過ぎなかったのだと知る。
そして胸の奥に、昨日とは別の形の震えが生まれる。
今度は失うことではない。
取り返せないかもしれないことへの、底の見えない恐怖だった。




