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沈黙という罰

妻が目を覚ましてから三日が過ぎた。


熱は少しずつ下がっていた。

青白かった頬にも、かすかな血色が戻りつつある。

水も薬も、医師やメイドに手伝われながらではあるが、少しずつ口にできるようになっていた。

身体だけを見れば、確かに快方へ向かっている。


けれど、それだけだった。


妻は、話さなかった。


目を開けている時間は増えた。

寝台に半身を起こしていられることもある。

窓から差し込む光に目を向けることもある。

それでも、誰かが呼びかけても、ほとんど反応を返さない。


「奥様、お水でございます」


メイドがそう告げれば、わずかに顔を向けることはある。

けれど返事はない。

うなずきすら、ない。

ただ、差し出されたものを静かに受け入れるだけだ。


相馬がそっと名を呼んでも、同じだった。


「奥様。お加減はいかがでございますか」


その問いに、妻はしばらく相馬の方を見ていた。

だが、その目の奥に浮かぶべきものは何もない。

やがて視線が落ち、また静かな無表情へ戻る。


会話にならない。

返事がない。

拒絶とも違う。

聞こえていないわけでもない。

ただ、そこへ何かを返す力だけが失われてしまったようだった。


医師は三日目の朝、再び診察に来た。


脈を取り、熱を確かめ、呼吸の様子を見て、静かに言う。


「お身体は、昨日より確かによくなっております」


夫はその言葉にすがるように顔を上げた。

だが医師は続ける。


「ただ……」


その間に、部屋の空気が少し重くなる。


「奥様は、非常にお疲れです」


「疲れ?」


夫が問い返す声は、もう以前のような鋭さを持っていなかった。


医師は慎重に言葉を選ぶ。


「身体の衰弱だけではございません。長く強い緊張と孤独に晒されたのでしょう。

心の消耗が、表へ出ておられるように見受けられます」


その表現は穏やかだった。

だが意味するところは十分に重かった。


心の消耗。


壊れた、とまでは医師は言わない。

だが夫には、それがほとんど同じことに聞こえた。


「元に戻るのか」


思わず問いが零れる。


医師は曖昧に目を伏せた。


「焦らせぬことです。ご本人が安心できること。無理に言葉を求めぬこと。

まずは、お身体が戻るのを待ちながら、静かにお休ませください」


それだけ言うと、医師は薬のこと、食事のことを細かく残し、下がっていった。


部屋に残った夫は、しばらく何も言えなかった。


安心できること。

無理に言葉を求めぬこと。


どちらも、自分が最も与え損ねたものだった。


それからも夫は、毎日見舞いに来た。


朝。

昼。

夜。


以前なら考えられない頻度で、妻の部屋へ足を運ぶ。

扉を開けるたび、胸のどこかでまだ期待してしまう。

今日は少しでも目が合うのではないか。

今日は名前を呼び返してくれるのではないか。

今日は、せめて表情が動くのではないか。


だが、そのたびに現実を思い知らされる。


「……具合はどうだ」


返事はない。


「今日は少し食べたと聞いた」


反応はない。


「医師が来た。熱は下がっているそうだ」


妻は静かに座ったまま、窓辺の光を見ているか、寝台の上に視線を落としている。

夫の声が聞こえていないわけではない。

時折、ほんの少しだけ視線がこちらへ寄ることがある。

だが、それだけだ。


感情の動きが見えない。

何を思っているのかもわからない。

責めてもこない。

怯えてもこない。

泣いてもこない。


夫はその無反応に、少しずつ追いつめられていった。


もし責められたなら、まだよかったのかもしれない。


どうしてこんなことをしたのですか、と。

ひどい、と。

怖かった、と。

そう言って泣かれたなら。

あるいは、震えながらでも背を向けられたなら。


それはまだ、妻の感情がここにあるということだからだ。


だが今の妻は違う。


何も返ってこない。


それは許されたのでも、受け入れられたのでもない。

ただ、感情を返す力そのものが尽きてしまったかのような沈黙だった。


責められるより、ずっと苦しい。


夫は三日目の夕方、寝台の脇の椅子に腰を下ろしたまま、長いこと妻を見ていた。


窓の外は薄く暮れ始めている。

妻は膝の上に手を重ね、背を預けたまま、じっとしていた。

その横顔は静かで、穏やかにさえ見える。

だがその穏やかさは、安らぎのそれではない。

燃え尽きたあとの灰のような静けさだった。


「……お前は」


夫が口を開く。

すぐに続く言葉が見つからない。


以前なら、何か命じるか、叱責するか、あるいは冷たく突き放すかだった。

今はそのどれもできない。


「何か言ってくれ」


ようやく出たのは、ひどく弱い言葉だった。


妻は動かなかった。


「……頼むから」


その声に自分でも驚く。

懇願だった。

誰にも頭を下げたことのない男が、今はただ妻のひと言を待っている。


だが返ってくるものはない。


静寂だけが部屋に落ちる。


夫は両手を組み、額に押し当てたくなる衝動を堪えた。

責められるなら耐えられる。

怒りを向けられるなら、それを受け止めればいい。

けれどこの空白はどうすればいいのかわからない。


地下室での七日間。

寒さ、孤独、静寂。

待ち続けても来ない痛み。


そのすべてが、今こうして目の前の沈黙になって返ってきている。


妻は壊れたのだ。

身体ではなく、もっと深いところが。


そしてそれを壊したのは自分だ。


夫はふと、以前の妻の笑みを思い出す。

機嫌を損ねぬための笑みではなく、もっと昔、小さな屋敷で見せていた自然な笑顔。

あの顔を失わせたのは、自分だったのだと今ははっきりわかる。


彼は毎日部屋へ来る。

来て、話しかけ、返事のない沈黙に打ちのめされて帰る。

それでも来るのをやめられない。


妻がもう以前のように自分を見ないかもしれない。

二度と自然に笑わないかもしれない。

その恐怖が、責められるよりもはるかに重く胸にのしかかっていた。


三日目の夜、部屋を出る前に夫は寝台のそばで立ち止まった。


「……明日も来る」


返事はない。


「お前が何も言わなくても、来る」


その声は低く静かだった。

命令ではない。

宣言というより、自分に言い聞かせるようだった。


妻はやはり動かなかった。


それでも夫はしばらくその場を離れられず、やがてようやく踵を返す。


扉が閉まる。

部屋にはまた静けさが戻る。


妻は窓の方を向いたまま、何も言わない。

ただ呼吸だけが、かすかに続いている。


目覚めて三日。

身体は良くなりつつある。

だが心は、まだ深いところで壊れたままだった。


そして夫は初めて知る。

怒りも涙も向けられないことが、これほど残酷な罰になるのだと。

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