妻を追いつめたもの
その日の夕刻、夫は珍しく自ら書斎へ相馬を呼んだ。
机の上には、まだ処理しきれていない書類がいくつも積まれている。
以前なら、彼はそれらを人に任せることを好まなかった。
誰よりも早く目を通し、誰よりも正確に判断し、自分の手で片をつけることに意味があると信じてきたからだ。
だが今は、その書類の山を見ても、以前ほどの執着が湧かなかった。
相馬が入室し、一礼する。
「お呼びでしょうか、旦那様」
夫はしばらく黙っていた。
何かを命じる前に、言葉を選んでいるようだった。
やがて低く口を開く。
「今後しばらく、俺の仕事量を調整しろ」
相馬はわずかに目を上げた。
その命令は、この若い主人の口から最も出にくい類のものだった。
「……調整、でございますか」
「ああ。急ぎでない案件は後ろへ回せ。面会も減らせ。夜の予定も、必要最小限にしろ」
相馬は慎重に問い返す。
「旦那様ご自身のお身体でも崩されましたか」
「違う」
夫は短く否定し、それから少し間を置いた。
「俺は……できる限り、あいつのそばにいたい」
書斎の空気が、ほんのわずかに揺れた気がした。
あいつ。
そう言いながらも、その声音には以前の突き放す冷たさがない。
むしろ、自分でも扱いかねるほど率直なものを、ようやく言葉にした不器用さが滲んでいた。
相馬は静かに頭を下げる。
「かしこまりました」
けれどその返事のあと、しばし沈黙が落ちた。
相馬は何か迷っているようだった。
夫がそれに気づく。
「何だ」
相馬は目を伏せたまま、低く言った。
「申し上げるべきか迷いましたが……奥様は、お子が授からぬこともお心を痛めておられたようでございました」
夫の眉がぴくりと動く。
「……何?」
相馬はゆっくり続けた。
「以前、使用人たちの立ち話を耳にされたことがございます。
お子ができれば、旦那様も少しはお優しくなるのではないか、と」
そのひと言で、夫の顔から血の気が引いたように見えた。
相馬はさらに言う。
「奥様は何も仰いませんでした。ですが、その夜、お部屋でおひとり泣いておられました。
ご自身が子宝に恵まれぬことで、旦那様のお心が変わらぬのではないかと……そのようなお気持ちも、おありだったのだと思います」
書斎に沈黙が落ちる。
夫は何も言わなかった。
だが机の端に置いた手が、ゆっくりと強く握られていく。
妻がそんなことまで抱えていた。
自分の冷たい態度に耐えながら。
地下室に入れられる前から、いや、もっと前から。
夫の機嫌ばかりを気にし、食卓にも着かず、外出も許されず、それでも微笑みを絶やさずに仕えていたあの女が。
さらにその上、子供がいないことまで、自分のせいのように思い悩んでいた。
胸の奥で、鈍い怒りのようなものが湧く。
だがそれは妻に向けたものではない。
噂したメイドたちへの怒りでも、子供という言葉そのものへの反発でもない。
全部、自分へ向かっていた。
そう思わせたのは自分だ。
妻が、子供がいれば優しくしてもらえるかもしれない、などと考えてしまうほど、自分は彼女を追い詰めていたのだ。
夫は唇をきつく結び、それから低く、はっきりと言った。
「子供など、どうでもいい」
相馬が目を上げる。
夫の目は、怒っているというより、ようやく核心に触れた人間の苦しさを帯びていた。
「俺にとって、あいつがすべてだ」
言い切ったあと、夫はわずかに目を伏せた。
その言葉は、誰に聞かせるためでもなく、言い逃れのできない本心として落ちた。
「あいつがいれば、それでいい。
……いや、よくないな」
自嘲のように短く息を吐く。
「あいつがいて、それをまともに扱えなかったのが俺だ」
相馬は何も挟まなかった。
今はただ、この若い主人が自分の胸の内を自分で掘り返しているのを見守るしかない。
夫は椅子の背にもたれ、低く続けた。
「子供がいるかどうかで、あいつの価値が変わるわけがない。
そんなことで……あいつが、自分は足りないなどと思う必要はどこにもない」
その声には悔いが滲んでいた。
妻は耐えていたのだ。
夫からの冷たい態度にも。
人前での叱責にも。
妻でありながら給仕をさせられる日々にも。
庭へ出ることすら許されぬ窮屈さにも。
そして使用人たちの噂話にも。
誰にもぶつけず、誰も責めず、ただ微笑んで耐え続けていた。
夫は今さらになって、その“耐える”という静かな強さがどれほど酷使されていたのかを思い知る。
彼女は黙っていたから壊れなかったのではない。
黙って耐え続けた果てに、壊れたのだ。
「……相馬」
「はい」
「今後、屋敷の中であいつに関する勝手な噂は一切許すな」
「承知いたしました」
「子のこともだ。二度と口にさせるな」
「かしこまりました」
相馬の返事は静かだったが、その奥には長年積もっていた痛ましさが滲んでいた。
もっと早く、こうなっていればと。
もっと早く、この主人がそこへ気づいていればと。
夫は机上の書類へ目を向ける。
だが視線は、その文字を読んではいない。
「仕事は減らせ。必要ならお前が振り分けろ」
「はい」
「俺はできるだけ、あいつのそばにいる」
そう言ったあと、夫はほんの少しだけ声を落とした。
「……もう一人で耐えさせたくない」
そのひと言に、相馬は深く頭を下げた。
「旦那様」
「何だ」
「奥様は、旦那様をお慕いしておられました」
夫の喉がかすかに動く。
相馬は続ける。
「冷たくされても、見放されることの方を恐れておられました。
旦那様のお気持ちを損ねぬようにと、そればかり考えておられたのです」
夫は目を閉じた。
知っている。
いや、本当は知っていた。
地下室で倒れるずっと前から。
だからこそ、今はその事実がなおさら重い。
「……わかっている」
その声はひどく低かった。
「わかっていて、俺はああした」
相馬は返す言葉を持たなかった。
しばしの沈黙のあと、夫は立ち上がる。
「今日はもう下がれ。調整は任せる」
「はい。すぐに整えます」
相馬が一礼して扉へ向かう。
だが出る直前、夫がもう一度だけ口を開いた。
「相馬」
「はい」
「子供のことを、本人の前で二度と話題にするな。
医師にも、使用人にも、全員に徹底させろ」
「承知いたしました」
扉が閉まる。
ひとり残された書斎で、夫はしばらく動かなかった。
子供はどうでもいい。
本当にそうだった。
彼が欲しかったのは、跡継ぎでも家名でもない。
ただ、あの女を手放したくなかった。
好きだった。
そばにいてほしかった。
それだけだった。
それだけなのに、伝え方を間違え続けた。
妻は彼の冷たさにも、屋敷の中の悪意にも、そして自分自身の不安にも耐え続けた。
その果てに、今はもう、話すことさえできなくなっている。
夫は片手で目元を覆い、低く息を吐いた。
「……あいつがすべてだ」
今度の言葉は、誰にも聞かせるためではなかった。
後悔と、祈りと、ようやく認めた愛情のすべてが混じった独白だった。
そしてそのまま、夫は妻の部屋へ向かう。
調整された仕事より。
処理の遅れる案件より。
体裁より。
何より今は、心を壊した妻のそばにいることの方が大切だった。
それを知るのが、あまりにも遅すぎたとしても。




