夜の告白
その夜、寝室には深い静けさが満ちていた。
灯りはひとつだけ、寝台の脇に落とされている。
昼のあいだは何人もの使用人が出入りし、医師の声や相馬の指示がかすかに響くこともあったが、夜になるとこの部屋は別世界のように静かだった。
妻は起きていた。
寝台に上体を預け、枕にもたれたまま、薄く開いた窓辺の方を見ている。
熱はだいぶ下がっている。
身体もわずかずつ回復しているはずだ。
けれどその横顔には、相変わらず何の感情も浮かばない。
夫が部屋へ入ってきても、妻はそちらを向かなかった。
ただ、目が開いている。
起きている。
それだけだった。
夫は扉を閉め、しばらくその場に立っていた。
昼のあいだは、医師の前でも、相馬の前でも、まだ何とか平静を装える。
だが夜、こうして二人きりになると、その平静は簡単に剥がれ落ちた。
寝台の脇へ歩み寄り、静かに椅子を引く。
その音にすら、妻は反応しない。
夫はしばらく何も言わなかった。
何から話せばよいのかわからなかった。
謝罪か。
後悔か。
それとも、今さら口にするには遅すぎる本心か。
沈黙のあと、ようやく口を開く。
「……起きているんだな」
返事はない。
わかっていた。
それでも、まず何か言葉を置かなければ、自分の方が耐えられなかった。
妻の視線は窓の方を向いたまま動かない。
その無表情な横顔を見つめながら、夫は低く続けた。
「相馬から聞いた」
そこで一度、言葉が詰まる。
「子供のことを、お前が気にしていたと」
妻はやはり動かない。
それでも夫は話し続けた。
今夜は、途中でやめてはいけない気がした。
返事がなくても、届くかどうかわからなくても、言わなければならないと思った。
「子供など、どうでもいい」
その声は強くはなかった。
怒気も、突き放しもない。
むしろ、ひどく静かだった。
「俺は、そんなものを欲しがったことはない」
妻の睫毛が、ほんのかすかに揺れた気がした。
だが気のせいかもしれないと思えるほど微かな動きだった。
夫は目を伏せる。
「お前が、子供がいないせいで自分は足りないなどと考えていたなら……それは違う」
言葉を選びながら、ひとつずつ置いていく。
「最初から、俺にとって大事だったのはお前だけだ」
部屋の静けさは変わらない。
「子供がいるかどうかで、お前の価値が変わることなどない。
そんなことでお前を見る目が変わることもない」
そこで夫は、自分の手を見た。
この手で地下室へやった。
この手で冷たく突き放した。
それでも今、この手でしか言葉を支えられない気がした。
妻の寝台の端へ、そっと指先を置く。
触れはしない。
今の彼女にとって、その距離すら許されるかどうかわからなかった。
「……お前だけでいい」
今度は、はっきりと口にした。
「俺には、お前だけでいい」
そのひと言が、夜の部屋に静かに沈む。
以前の夫なら決して言わなかった。
言えなかった。
認めれば、自分が変わってしまう気がしていたから。
弱くなる気がしていたから。
だが今は、そんな体裁にしがみついて失ったものの方が、はるかに大きいと知ってしまった。
妻はなおも窓の方を向いている。
夫の方を見ない。
表情も変わらない。
無反応だった。
その無反応が胸に刺さる。
けれど夫は、今夜はそこから逃げなかった。
「お前は、俺の冷たさにも耐えた」
声が少しだけ掠れる。
「屋敷の中の噂にも耐えた。
……子供のことで、あんなことまで一人で抱えていた」
妻の唇は閉ざされたままだ。
言葉はない。
「俺は何も知らなかったんじゃない。
知ろうとしなかった」
夫はゆっくりと息を吐いた。
「お前が何を思っているか、何に傷ついているか、見ようとしなかった。
見れば、自分がどれほど酷いことをしているか、わかってしまうからだ」
自嘲のような沈黙が落ちる。
「……卑怯だった」
それもまた、彼には初めて口にする類の言葉だった。
妻はやはり無表情のまま、わずかに呼吸を繰り返すだけだ。
夫はその横顔を見つめ、低く続ける。
「今さら何を言っても遅いのはわかっている。
お前がこうなったあとで、本当のことを言うのは、あまりにも遅い」
それでも言う。
返事がなくても、顔を向けてもらえなくても。
「だが、嘘はもう言わない」
灯りの下、若い主人の横顔にはもう、これまでのような冷えた硬さはなかった。
あるのは後悔と、それでもなお縋りつくように残った愛情だけだった。
「子供などどうでもいい。
家も、跡継ぎも、外聞も、そんなものはどうでもいい。
……お前がいてくれればよかった」
最後のひと言は、ひどく静かだった。
けれどその静けさの中に、今さら取り繕えない本心があった。
妻は何も言わない。
夫を見ようともしない。
無表情のまま、無反応のままだった。
その現実は、話している最中ずっと夫の胸を締めつけていた。
言葉が届いているのか。
届いたとして、何かが動くのか。
それとも、もう何を言っても届かないのか。
わからない。
それでも、夫は立ち去らなかった。
しばらく黙って座ったあと、最後にもう一度だけ口を開く。
「返事はいらない」
もちろん、返せないこともわかっている。
それでもあえてそう言った。
「見なくていい。
何も言わなくていい」
そこで夫は、ようやくほんの少しだけ妻の方へ身を乗り出し、壊れ物に触れるような慎重さで、寝台の上に置かれた妻の手の近くへ自分の手を置いた。
重ねはしない。
ただ、そこにあることだけを示すように。
「それでも、俺は来る」
妻の視線は動かない。
それでも夫は続ける。
「毎日、会いに来る」
声は低く、落ち着いていた。
命令でも懇願でもない。
決意だけが静かに宿っている。
「お前が何も言わなくても、見なくても、来る。
逃げたくなっても、仕事があっても、来る」
以前の自分なら、感情より仕事を選んだだろう。
体裁を選び、威厳を選び、弱みを見せぬことを選んだだろう。
だがもう違う。
「お前が戻るまで、とは言わない」
その言葉に、自分でも少しだけ苦いものを感じる。
戻る、という言い方が簡単すぎるとわかっているからだ。
「戻るとか戻らないとか、そんなふうに急がせる気もない。
ただ……」
そこで夫は、初めて妻の横顔から目を逸らさずに言った。
「お前のそばにいる」
無表情。
無反応。
それでも妻は、そこにいた。
夫はその沈黙を受け止めるように、しばらく黙って座っていた。
以前なら耐えられなかった沈黙だった。
何も返ってこないことが、責められるより苦しかった。
だが今は、その苦しさからも逃げてはならないと思っている。
逃げた先にあったのが地下室であり、七日間であり、今のこの横顔なのだから。
やがて夫は静かに立ち上がる。
「……また明日来る」
返事はない。
「明後日も、その次もだ」
妻はやはり夫を見ない。
それでも夫は、その無反応の前で足を止めたまま、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
そして最後に、誰にも聞かせぬような小さな声で言う。
「今度は、お前を一人にしない」
その言葉に対しても、妻は動かなかった。
けれど夫は、それでもよかった。
今夜は、返事がなくても。
顔を向けてもらえなくても。
本当のことを、ようやく口にできたのだから。
夜の寝室には、再び静けさが満ちる。
その静けさの中で、妻は無表情のまま起きている。
夫は扉へ向かいながら、それでも明日も来ると心の中でもう一度繰り返した。
返ってこない沈黙の前に、毎日立つために。
壊したものを前にして、今度こそ逃げないために。




