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星空の下で、もう一度

それから七日が過ぎた。


妻の身体は少しずつ快方へ向かっていた。

熱は下がり、食事もわずかずつ取れるようになっている。

けれど、心の方はまだ深く沈んだままだった。


表情は戻らない。

呼びかけても、視線が向くだけで言葉は出ない。

穏やかな顔をしているわけでもなく、かといって苦しみを露わにするわけでもない。

ただ静かに、感情だけが遠い場所へ置き去りにされたような無表情が続いていた。


夫は毎日、妻の部屋を訪れた。

朝も、昼も、夜も。

短い言葉をかけ、返事のない沈黙を受け止め、それでもそばにいた。


時折、散歩にも連れ出した。


長くは歩かせない。

庭を少し回るだけのこともあれば、回廊の窓辺まで行って戻るだけの日もある。

そのとき夫は、必ず妻の手を握った。


転ばぬように。

冷えぬように。

そして何より、もうひとりにしないために。


けれど妻は、握り返さなかった。


拒むわけではない。

ただ、されるままにその手を預けているだけだ。

夫がどれほどやさしく包んでも、そこから温度が返ってくることはまだなかった。


それが夫には苦しかった。


責められた方がまだましだと思うことすらあった。

泣かれた方が、怒られた方が、まだ届いている気がする。

けれど今の妻は、静かに夫のそばを歩きながらも、どこか遠いままだった。


ある夜のことだった。


屋敷の中はもう静かで、遅い時間だった。

夫は書斎から戻る途中、廊下の向こうに小さなざわめきを聞いた。


「奥様、お待ちください」


「どうか、お部屋へお戻りくださいませ」


若いメイドたちの、困惑した声だった。


夫が足を速めて向かうと、そこには部屋を出た妻の姿があった。


寝間着の上に薄い室内着を重ねただけの身なりで、夜の廊下を進もうとしている。

メイドたちが左右から止めていたが、妻は声を荒げることもなく、ただ静かに、その制止を振り切るように前へ進んでいた。


「……どうした」


夫が声をかけると、メイドたちははっとして道を空ける。


「旦那様……奥様が急に、お部屋を……」


夫は軽く手で制し、妻の前へ立った。


妻は立ち止まる。

だが夫を見上げることはせず、その向こうを見ている。

その目は、どこか外を求めているようだった。


夫はその顔を見て、低く問う。


「外か」


返事はない。

けれど、その沈黙は否定ではなかった。


夫はすぐにメイドへ言った。


「上着を持ってこい。厚手のものを」


「は、はい」


メイドが駆けていくあいだも、妻はその場に立ったまま、静かに前を見ている。

部屋へ戻る気配はなかった。


運ばれてきた上着を、夫は自ら受け取った。

そして妻の肩へそっと掛ける。

首元を整え、冷えぬよう丁寧に羽織らせる。


「寒い」


そう言った声は、叱るものではなく、ただ案じるものだった。


妻は無抵抗のまま、その手を受け入れた。


それから夫は、何も言わず妻の横へ寄り添った。


「行こう」


そのひと言で十分だった。


二人は並んで外へ出る。


夜の庭は、しんと澄んでいた。

昼間とは違う静けさが満ち、遠くの物音さえこの夜には届かない。

冬の空気は冷たい。だがそのぶん、空は驚くほど澄み切っている。


妻は数歩進むと足を止めた。


そして、ゆっくりと顔を上げる。


星空を見上げていた。


無数の星が、夜の空いっぱいに散っている。

黒く澄んだ空に、凍るような光が瞬いていた。


その光景を見た瞬間、夫の胸に、ある夜の記憶が鮮やかによみがえった。


まだ三年前。

小さな屋敷で、使用人は相馬と妻しかいなかった頃。

仕事を終えたあと、偶然二人で庭へ出た夜。

冬の空に思いがけなく多くの星が出ていて、妻が今と同じように顔を上げていた。


そのとき夫は、ほとんど無意識に言ったのだ。


――綺麗だな。


星を見て言ったのか、隣にいた妻を見て言ったのか、自分でもわからないまま。


夫は今、そのときと同じ空の下に立っている。


隣には、やはり妻がいる。

ただし、今はあの頃のように自然には笑わない。


それでも夫は、同じように静かに口を開いた。


「……綺麗だな」


あのときと同じ声音で。

星空に向けるようでいて、どこか妻にも届くように。


妻は何も言わない。

けれど、星を見上げたまま、そっと夫の手へ視線を落とした。


夫はいつものように、その手を取る。


今夜もまた、返ってこないかもしれない。

そう思いながら。


けれど次の瞬間、妻の指先が、かすかに動いた。


夫は息を止める。


冷えた手が、ほんの少しだけ、しかし確かに夫の手を握り返した。


その力は弱い。

けれど偶然ではない。

妻自身の意思だった。


夫はすぐには顔を向けられなかった。

驚きと、安堵と、胸を締めつけるような愛しさが一気に込み上げて、言葉が出なかったからだ。


ようやく、そっと妻を見る。


妻はまだ星空を見上げている。

無表情のまま。

だがその手だけは、今も夫の手を握っていた。


それだけで十分だった。


七日間、返ってこなかった温度が、ようやく、ほんの少しだけ戻ってきたのだとわかった。


夜空には星が変わらず瞬いている。

あの小さな屋敷で見たのと同じように。


違ってしまったものは多い。

失ったものも、壊してしまったものも多い。

それでも今、夫の手の中には、たしかに妻の小さな握り返しがあった。


夫はその手を強くしすぎぬように、そっと包み込む。


夜の庭で、二人はしばらくそのまま立ち尽くしていた。

言葉はない。

けれどその静けさは、昨日までのものとは違っていた。


星空の下で、ようやく最初の小さな返事が戻ってきた夜だった。

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