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雪の朝のひとこと

星空の夜から十日が過ぎた。


あの晩、妻は初めて夫の手を握り返した。

それは小さなことだった。

けれど夫にとっては、凍りついたままだった時間がようやくわずかに動いたとわかるほど、大きなことでもあった。


そのあとも、劇的に何かが変わったわけではない。


妻の表情はまだ戻らない。

言葉も出てこない。

散歩に連れ出せば静かに歩く。

手を取れば拒みはしない。

けれど、星空の下で返されたあの小さな握り返しを除けば、依然として妻は無表情で、何も語らなかった。


それでも夫は、毎日変わらず部屋を訪れた。


朝も、昼も、夜も。

返事がなくても、目が合うだけでも、そばにいる。

そうすることでしか、今の自分には償えないと思っていたし、それ以上に、もう離れていたくなかった。


その日の午前、空は朝から重く曇っていた。


やがて静かに雪が降り始める。

はじめは細かな粉のようだったものが、時を追うごとに大きくなり、庭の石畳も、木々の枝も、ほどなく白く覆われていった。


夫が妻の部屋を訪れたとき、妻は窓際の椅子に座っていた。


膝の上に両手を重ね、ただ静かに外を見ている。

表情はやはりない。

けれど以前の空虚な無表情とは少し違い、今はどこか、外の景色へ意識が向いているようにも見えた。


夫は扉を閉め、少しだけ近くへ歩み寄る。


窓の外は、もう一面の雪景色だった。

白く、やわらかく、音を吸い込んだように静かだ。


夫はしばらくその景色を見てから、低く言った。


「雪が降っている」


返事はない。


だが夫は、以前ほどその沈黙に怯えなくなっていた。

返ってこなくても、そこに妻がいて、自分の声を聞いている。

今はそれだけでもよかった。


夫はさらに続ける。


「かなり積もってきた。庭も、石畳も白くなっている」


妻は外を見たまま動かない。

冬の淡い光が頬に落ちても、その表情に変化はない。


「木の枝にも、ずいぶん積もっている」


そう言ったときだった。


妻の唇が、ほんのわずかに動いた。


「……雪」


夫は息を止めた。


あまりにも小さな声だった。

聞き違いかと思うほどかすかで、それでも確かに、妻自身の声だった。


雪。


そのひと言だけが、静かな部屋の中に落ちた。


夫はすぐには言葉を返せなかった。

胸の奥が強く揺れ、うれしさと驚きが一気に込み上げてくる。

ようやく、どうにかそれを押さえ込むように答える。


「……ああ」


声が少し掠れていた。


「雪だ」


妻は夫を見ない。

窓の外へ向けたままの視線も、表情のない顔も、そのままだ。

けれど、確かに今、雪と言った。


それ以上は続かない。

再び沈黙が戻る。


だが、その沈黙は昨日までのものとは違っていた。

まるで厚く閉ざされていた扉の隙間が、ほんの少しだけ開いたあとの静けさだった。


夫はその変化を壊したくなくて、しばらくただ妻と同じように窓の外を見ていた。


雪はなおも降り続いている。

白い庭は、見ているだけで胸の内まで静まるようだった。


やがて夫は、慎重に口を開く。


「……外に出るか」


自分でも、ほとんど返事は期待していなかった。

今日もまた沈黙のまま終わるのだろうと思っていた。


それでも訊いたのは、妻が今、雪を見て何かを感じたのなら、その気持ちの先へ手を伸ばしてみたかったからだ。


返事はすぐにはない。


夫はそれでも焦らず、静かに待った。


すると、数瞬ののち。


妻が、ほんのわずかに頷いた。


夫は目を見開いた。


無表情のままだ。

言葉もない。

けれど、その頷きははっきりとした意思だった。


外に出る。

雪を見たい。

そう、妻が自分で選んだのだ。


夫は胸の奥にひどく静かな熱が広がるのを感じた。


「……わかった」


声はできるだけやわらかくした。


「暖かくして行こう」


妻はもう一度は頷かなかった。

ただ、そのひとつきりの動きが、そこにたしかに残っている。


夫はすぐにメイドを呼ぶことはせず、まず自分で上着とショールのことを考えた。

あまり大袈裟にすれば、妻の気持ちがまた閉じてしまう気がしたからだ。


窓の外では雪が静かに積もり続けている。


地下室を出てから初めてと言っていいほどはっきりした、妻自身のひとこと。

そして、自分の問いに対する明確な頷き。


それだけのことが、夫には奇跡のように思えた。


雪景色の朝。

妻は初めて「雪」と呟き、外へ出ることを選んだ。


それはまだ、ほんの小さな回復だった。

けれど夫には、その小ささこそがかけがえなく思えた。


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