二つの雪だるま
夫は妻に厚手の上着とショールを羽織らせ、ゆっくりと部屋の外へ連れ出した。
屋敷の廊下は暖かかったが、扉の向こうの空気はきりりと冷えていた。
それでも今日は、その冷たささえ妻の心をどこかへ引いていくように思えた。
外へ出ると、庭は一面の雪だった。
石畳も、木々の枝も、いつも見慣れた庭の輪郭も、すべてがやわらかな白に包まれている。
降り続く雪が音を吸い込み、世界そのものが静まり返ったようだった。
妻は夫に促されるでもなく、自ら歩き出した。
足元は慎重だった。
まだ病み上がりの身体に無理はさせたくないと、夫は半歩遅れて寄り添う。
転ばぬよう、すぐ支えられるよう、視線を離さずについていく。
妻は庭の真ん中あたりで足を止めた。
そして、静かにしゃがみ込む。
白く積もった雪に手を伸ばし、指先でそっと触れる。
手袋越しにも伝わる冷たさを確かめるように、雪を撫で、それから両手で掬い上げた。
夫は何も言わず、その様子を見守った。
妻はその雪を、ゆっくりと丸め始めた。
夫はその手元を見て、すぐにわかった。
雪だるまを作ろうとしているのだと。
「……雪だるまか」
低くそう言ってみる。
返事はない。
けれど妻は、確かに自分の意思で雪を集め、転がし、形を整えていた。
無表情のまま。
何も言わず。
それでも、その動きだけが今の妻の心をそのまま表しているようだった。
夫も隣へしゃがみ込む。
「俺も手伝う」
妻は顔を上げない。
けれど拒まない。
夫は別の雪を集め、妻が作る球の形を整える。
冷たい雪を押し固めながら、二人は並んで黙々と手を動かした。
しばらくして、ひとつ目の雪だるまが出来上がる。
丸い頭と胴を重ねた、小さな雪だるまだ。
不格好ではあるが、きちんと形になっている。
夫はそれを見てから、妻の方へ目を向けた。
「……もう戻ろう」
外気は冷たい。
雪はまだ舞っている。
妻の体調を思えば、ここで終わらせるべきだと理性は言っていた。
「冷える」
だが妻は返事をしなかった。
そのかわり、また無言でしゃがみ込み、今度は少し離れた場所の雪を集め始める。
夫は一瞬、息を呑む。
今度もまた、最初から迷いのない手つきだった。
もうひとつ作るつもりなのだと、すぐにわかる。
夫はそれ以上止めなかった。
ただ再び隣へしゃがみ込み、静かに言う。
「……手伝う」
妻はやはり何も言わない。
それでも二つ目の雪玉を整える夫の手を、拒むことはなかった。
雪の上で、また二人の手が動く。
一つ目より少し小さな雪だるまが、やがて出来上がる。
それを最初の雪だるまの隣へ並べると、不思議なくらいしっくりと収まった。
白い庭の中に、二つの雪だるまが並んで立つ。
夫はその光景を見て、ようやく気づく。
一つでは足りなかったのだ、と。
そのときだった。
妻の唇が、ほんのわずかに動いた。
「……一人は、寂しい」
夫の胸が強く締めつけられる。
声は小さい。
かすれている。
それでもはっきりと聞こえた。
一人は、寂しい。
夫は並んだ雪だるまへ視線を落とす。
一つだと寂しい。
だから、もう一つ作ったのだ。
そのあまりに静かな理由が、逆に妻の中に残っていた孤独の深さを、そのまま突きつけてくる。
地下室の夜。
寒さ。
沈黙。
扉の音に期待しては、来ないたびに小さく傷ついた日々。
ずっと、一人だった。
夫は何も言えなくなった。
雪だるまの前に立つ妻の横顔を見つめ、胸の中で痛みが広がる。
だがその痛みを言葉にするには、今はあまりに軽すぎる気がした。
夫はただ、そっと妻の肩へ手を伸ばし、そのまま抱き寄せる。
壊れ物を扱うように慎重に。
けれど、もう二度と手放さぬように。
妻は抵抗しなかった。
無表情のまま、されるままに夫の腕の中へ収まる。
そして、夫の胸元へ顔が近づいたとき、妻はまた小さく呟いた。
「……旦那様」
夫ははっとする。
今、自分をそう呼んだ。
地下室のうわ言ではない。
熱の中の幻でもない。
この雪の朝、今ここで、はっきりと。
「……ああ」
ようやく返せた声は、掠れていた。
すると妻は、さらにごく小さな声で続けた。
「……会いたい」
夫は息を呑んだ。
会いたい。
そのひと言の意味が胸へ落ちるのに、数瞬かかった。
ずっと会いたかったのだ。
待っていたのだ。
それでも、会えなかった。
会いに来てほしかったのに、来なかった。
その寂しさも、痛みも、たったそのひと言の中にすべて詰まっているようだった。
夫は何か言おうとして、言葉を失う。
謝るには足りない。
慰めるには軽すぎる。
何を言っても追いつかない気がした。
だから結局、夫にできたのは、ただ抱きしめることだけだった。
その腕の中で、妻はそれ以上言葉を続けなかった。
無表情のままだった。
声もない。
けれど頬を、涙が静かに伝っていた。
泣いている。
嗚咽はない。
顔にも、はっきりした感情は浮かばない。
それでも涙だけが、あとからあとから零れていく。
夫はその涙を見て、抱く腕にそっと力を込めた。
一人は寂しい。
旦那様。
会いたい。
どれも短い言葉なのに、その一つひとつが胸に深く刺さる。
もう二度と、一人で待たせてはならない。
そう思うしかなかった。
白く積もった庭の中に、二つの雪だるまが並んでいる。
その前で、夫は妻を抱きしめたまま動かなかった。
今はただ、それだけでいいと思った。
雪の朝。
二つの雪だるまとともに、妻は初めて、自分の孤独と想いを言葉にした。
そして夫は、その重さを、ようやく自分の腕の中で受け止めていた。




