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三十歳の誕生日

数日後、夫は三十歳の誕生日を迎えた。


屋敷の中では、そのことを知る者も多かった。

若き主人の節目の日だ。普段より少しだけ料理が整えられ、使用人たちの動きもどこか慎重になる。

けれど、それは祝いというより、機嫌を損ねぬための緊張に近かった。


かつては違った。


まだ妻がメイドだった頃。

小さな屋敷で、使用人といえば相馬と妻しかいなかったあの頃、誕生日の日だけは、妻はいつもより少し手の込んだ料理を用意してくれた。

豪勢ではない。けれど温かく、丁寧で、見ただけで彼女がその日のために手をかけたことがわかる食卓だった。


そして食事を出すとき、必ず言ったのだ。


――お誕生日おめでとうございます、旦那様。


この大きな屋敷に来てからも、それだけは変わらなかった。

夫がどれほど冷たくなっても、どれほど距離を置いても、妻は毎年欠かさず祝いの言葉を口にした。


一方で、夫は一度も祝ったことがない。


妻の誕生日を知らなかったわけではない。

知っていた。

知っていて、何もしなかった。


おめでとう、のひと言すら言わなかった。

誕生日だとわかっていても、いつも通りに冷たく過ごし、何事もなかったようにその日を終わらせてきた。


それを思うと、この朝の時点ですでに、夫の胸の中には鈍い痛みがあった。


昼過ぎ、夫は妻の部屋を訪れた。


最近は毎日顔を見に行くことが当たり前になっていた。

だが今日はいつもより少しだけ、扉の前で立ち止まる時間が長かった。


中では、妻に仕えるメイドが身の回りを整えていた。

夫が入ると、メイドはすぐに下がり、一礼する。


「旦那様、お誕生日おめでとうございます」


その素朴な祝辞に、夫は一瞬だけ目を伏せた。


「ああ」


返した声は短かったが、いつものような冷たさはなかった。


祝いの言葉。

それを今日は、妻から聞けないかもしれない。


そう思った瞬間、胸の奥に重く沈むものがある。


妻は窓辺の椅子に座っていた。


相変わらず無表情で、言葉もほとんどない。

だがこのところ、手を握ると、妻も静かに握り返してくれるようになっていた。

それだけが、今の夫にとって確かな救いだった。


夫は妻のそばへ歩み寄り、低く言った。


「少し外へ出るか」


返事はない。

けれど妻は拒まなかった。


夫は上着とショールを整え、冷えぬよう丁寧に着せる。

その手つきは以前のような所有のための乱暴さではなく、壊れやすいものを守ろうとする慎重さに変わっていた。


そして手を差し出す。


妻の手が、その手に重なる。

夫がそっと握ると、今日もまた、妻は静かに握り返した。


それだけで夫の胸が微かに熱を持つ。


庭へ出ると、まだ冬の気配は濃かった。


雪は前ほどではないが、日陰には白い名残が残っている。

空気は冷え、土も眠ったままだ。

春の盛りのような華やかさはない。けれどそれでも、冬の中で咲く花がいくつか、慎ましく顔を出していた。


妻はその花々の前で足を止めた。


白くうつむく小さな花。

冷たい空気の中に、それでも確かに咲いている冬の花々。


夫は妻の隣に立つ。

握った手は離さない。


「春になれば、もっとたくさん咲く」


妻は無表情のまま花を見ている。


夫はゆっくり続けた。


「この庭も、今とはまるで違うくらい色づく。

もっとたくさんの花が見られる」


少し間を置いてから、さらに静かに言う。


「……その時も、一緒に見よう」


それは誘いであり、願いでもあった。

春まで。

その先まで。

どうか自分のそばにいてほしいという、今の夫に言える精一杯の言葉だった。


妻はすぐには反応しなかった。

夫も、また沈黙に終わるかもしれないと思った。


けれど、やがて。


ごく小さく、妻が頷いた。


ほんのわずかな動きだった。

それでも、はっきりとした肯定だった。


夫の喉がかすかに動く。


頷くことすら、まだ珍しい。

それなのに今、妻は確かに春を一緒に見ることを受け入れた。


夫は何も言えず、ただその横顔を見つめた。


妻はしばらく花を見ていた。

白い花弁に落ちる冬の光を、静かに追うように。


やがて、その唇がほんの少し動く。


「……おめでとう」


夫は息を止めた。


ひどく小さな声だった。

掠れていて、風に紛れそうなほど弱い。

それでも間違いなく、そのひと言は妻の口から零れた。


おめでとう。


今日は夫の三十歳の誕生日だ。

だから夫はすぐに、それが自分への祝いの言葉だとわかった。


胸の奥で何かが強く揺れた。


妻はまだ無表情だ。

夫の方を見てもいない。

それでも、こうして祝ってくれた。


冷たくされても。

地下室へ入れられても。

心を壊すほど追いつめられても。

それでもなお、妻は夫の誕生日を忘れず、祝いの言葉を口にしたのだ。


昔と同じように。


いや、昔以上にそのひと言は重かった。


夫は妻の誕生日を知っていながら、一度も祝わなかった。

おめでとう、とさえ言わなかった。

その日が来ても無視し、見て見ぬふりをし、当然のように過ごしてきた。


そんな自分を、それでも妻はまだ祝ってくれる。


あまりにも痛くて、あまりにも優しくて、夫はすぐに言葉を返せなかった。


喉が詰まる。

胸の奥に、これまで積み重ねてきた後悔と、いま初めて与えられたような幸福とが一気に押し寄せる。


気づけば夫は、妻を抱きしめていた。


強くではない。

けれど離したくないという思いが、そのまま腕に出る抱擁だった。


妻は抵抗しない。

静かに抱かれたまま、動かない。


夫はその肩に額を寄せそうになるのを堪え、ようやく掠れた声を絞り出した。


「……ありがとう」


それだけだった。


けれどそのひと言に、今まで言えなかったもののすべてが滲んでいた。

祝われる資格などないと知りながら、なお受け取ってしまったことへの痛み。

祝ってくれたことへの、どうしようもない嬉しさ。

そして、こんなにも遅くなってしまった後悔。


冬の花は静かに咲いている。

その前で、夫は妻を抱きしめたまましばらく動けなかった。


妻は無表情のままだ。

けれど、今日確かに「おめでとう」と言った。


それはひとことでしかない。

それでも夫にとっては、どんな豪奢な祝いよりも深く、重く、胸に残る贈り物だった。

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