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思い出の旧家

その晩、夫はひとり書斎に残っていた。


窓の外はすっかり夜に沈み、屋敷の灯りだけが冬の闇をかろうじて押し返している。

机の上には書類が積まれていたが、目を通す気にはなれなかった。


今日、妻は自分の誕生日を祝った。


冬の花を見つめながら、無表情のまま、かすかな声で「おめでとう」と言った。

たったひと言。

それだけのことが、夫の胸に深く残っていた。


あれほど傷つけ、壊してしまった相手が、それでもなお自分を祝う。

その優しさが嬉しいと同時に、どうしようもなく苦しい。


夫は椅子に深く腰を下ろし、目を閉じた。


妻の心を少しでも取り戻したい。

笑顔までは望まない。

せめて、このまま静かに擦り減っていくような時間ではなく、何かひとつでも、彼女の中に残っている温かな記憶へ手を伸ばしたかった。


思い出の場所へ連れて行こう。


ふと、そう思った。


妻にとって、自分と過ごした時間の中で、まだ苦しさより先に懐かしさが浮かぶ場所。

そこへ行けば、何かが戻るかもしれない。

あるいは、戻らなくても、閉ざされた心の奥にほんの少しでも触れられるかもしれない。


だが、その考えの次の瞬間、夫は言いようのない空虚さを覚えた。


妻をどこかへ連れて行った記憶が、ほとんどない。


結婚してからの三年。

豪奢な屋敷を与え、衣装を与え、地位を与えたつもりでいた。

だが、妻自身をどこかへ連れ出し、共に景色を見て、思い出を重ねたことがどれほどあっただろう。


庭を歩かせることすら許さなかった。

食卓にも着かせず、外出も許可制。

傍に置くことばかりに執着して、共に過ごすことを知らなかった。


夫はゆっくりと手で顔を覆った。


ない。


思い返しても、妻との“場所”の記憶が驚くほど少ない。

あるのは屋敷の中ばかりだ。

食堂。大広間。書斎の前。廊下。

どれも夫が支配する空間で、妻が顔色を窺い、仕える場所ばかりだった。


そんな中で、わずかに胸に浮かぶ場所があった。


旧家だった。


今の巨大な屋敷へ移る前に暮らしていた、小さな屋敷。

まだ使用人は相馬と妻だけで、妻はメイドとして働いていた。

夫自身も今ほど冷たく固まりきってはおらず、妻も今よりずっと自然に笑っていた頃の家。


あの家には、確かに二人の記憶がある。


遅く帰った夜に、妻が温め直した食事を出してくれた台所。

書斎の灯りの下で、何も言わず湯を置いていった足音。

誕生日にいつもより少し手の込んだ料理が並んだ食卓。

冬の夜、外へ出て二人で星を見た庭。


今の屋敷ほど豪奢でも広くもなかった。

だがあの家には、今失ってしまったものがまだ確かにあった。


夫はゆっくりと顔を上げた。


次の休日。

あそこへ行こう。


大袈裟な遠出ではない。

華やかな場所でもない。

けれど、数少ない“妻との思い出の場所”と呼べる場所だった。


今も所有者は夫のままだ。

普段は時折管理人が入り、最低限の手入れだけをしている。

使われぬまま静かに残されているはずだ。


夫は立ち上がり、すぐに相馬を呼ばせた。


しばらくして現れた相馬は、一礼して夫の前に立つ。


「お呼びでしょうか、旦那様」


夫は机の前に立ったまま、簡潔に言った。


「次の休日、旧家へ行く」


相馬の目がわずかに動く。

その一瞬の反応に、夫は相馬もすぐ意味を察したのだとわかった。


「奥様とご一緒に、でございますか」


「ああ」


短い返答のあと、夫は少しだけ声を落とした。


「準備をしておけ。家の中を整えろ。暖炉も使えるようにしろ。寝室も、食堂もだ」


相馬は静かに頷く。


「かしこまりました」


夫はさらに続ける。


「大げさな人数は連れて行かない。必要最低限でいい。

……あの家の空気を壊したくない」


その言葉には、自分でも意外なほど率直な感情が滲んでいた。


旧家は、ただの古い家ではない。

妻がまだ自然に笑っていた場所。

自分がまだ、今ほど彼女を追い詰めていなかった頃の記憶が残る場所。


そこへ、今の妻を連れて行きたい。

壊してしまった今だからこそ、せめてあの頃の気配が少しでも彼女に触れてくれればと願っていた。


相馬はその思いを汲んだように、慎重に尋ねる。


「奥様のお身体に障りのないよう、暖かく整えておきます。

お食事も、昔に近い形でご用意いたしましょうか」


夫は一瞬、相馬を見る。


昔に近い形。


それはつまり、あの小さな屋敷で妻がよく整えてくれていた、温かく無理のない食卓のことだろう。


「ああ」


夫は低く答える。


「そうしろ。派手なものはいらない」


少し間を置いてから、さらに付け加えた。


「……あの頃のままでいい」


そのひと言に、相馬は深く頭を下げた。


「承知いたしました」


夫は窓の外へ目を向けた。

冬の夜の向こうに、もう使われぬまま静かに立っている旧家を思う。


あそこなら。

何かがあるかもしれない。


確かな希望ではない。

戻る保証もない。

けれど今の夫には、手をこまねいて妻の沈黙を見ているだけの方がよほど恐ろしかった。


思い出の場所。

それを探そうとして、ほとんど何も持っていなかったと知った。

その事実は痛かった。

だが、だからこそ今残っているわずかな場所を、大切にしなければならないと思った。


「相馬」


「はい」


「管理人にも伝えろ。俺が行くまで余計な手は入れさせるな」


「かしこまりました」


「花は……」


そこまで言って、夫は言葉を切る。

冬だ。

庭に多くは望めない。

それでも旧家の小さな庭に、まだ何か咲いているものがあるかもしれない。


雪の日に妻が花を見つめていた姿を思い出し、夫は静かに言い直した。


「庭も見られるようにしておけ」


「はい」


相馬が退出したあと、書斎には再び静けさが戻る。


夫はしばらく立ったまま、胸の内にある不安を見つめていた。


もし何も起こらなかったら。

旧家へ行っても、妻が何も思い出さなかったら。

自分だけが懐かしさに縋って、妻にはただ疲れを強いるだけだったら。


そう考えると怖かった。


それでも行こうと思う。


今の屋敷には、あまりに痛みが多すぎる。

ならばせめて、まだ二人の間に痛みより先に温かさがあった頃の場所へ。


夫はようやく机の上の灯りを落とし、低く独り言のように呟いた。


「……今度こそ」


その言葉の続きは、誰にも聞かせなかった。


今度こそ、取り戻したい。

今度こそ、妻を一人にしない。

今度こそ、自分の気持ちから逃げない。


そんな願いだけを胸に、夫は次の休日を待った。

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