表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
24/53

抱擁

休日の朝、空は薄く晴れていた。


冬の冷たさはまだ残っているが、前ほどの厳しさではない。

屋敷の空気も、普段の慌ただしさをいくらか和らげたように静かだった。


夫は約束どおり、付き人を最小限に絞らせた。

旧家へ同行するのは、必要な準備を整えて先に向かわせた者たちだけ。

実際に車へ乗るのは、運転手と、後部座席の夫婦だけだった。


車が屋敷を出ると、窓の外の景色がゆっくり流れ始める。


冬枯れの並木。

ところどころに残る雪。

薄い陽に照らされた町の色。


妻は夫の隣に座っていた。

暖かい外套に包まれ、膝の上に手を重ね、静かに前を向いている。


無表情だった。


夫は横目でその横顔を見て、それから視線を窓の外へ戻す。

こうして二人きりで車に乗ること自体が、思い返してみればほとんどなかった。


行き先を知らせたときも、妻は何も言わなかった。

拒みもしなかったが、喜びも見えなかった。

それでも今、こうして隣にいる。


その事実だけを頼りに、夫は時折、小さく声をかけた。


「寒くないか」


返事はない。


少し間を置いて、また言う。


「旧家まで、そう長くはかからない」


やはり反応はない。


それでも夫はやめなかった。

返事を期待してというより、沈黙だけにしてしまうのが怖かったのだ。


「向こうは、暖炉も使えるようにしてある」


妻は窓の外を見ているのか、それとも何も見ていないのか、わからない目をしていた。

横顔は静かなままで、感情の揺れは読み取れない。


車輪の振動と、遠く小さく響く街の音だけが車内に流れる。


夫は膝の上で手を組み、視線を落とした。


返ってこない。

それでも、こうして隣に座っているだけで、少し前までの妻よりはまだ近くに感じる。

星空の下で握り返された手。

雪の日のひとこと。

冬の花の前での「おめでとう」。


あの小さな変化たちを胸の中で繰り返しながら、夫はじっと旧家までの道を待った。


やがて車は、かつて二人が暮らしていた家の前へ滑り込む。


今の屋敷に比べれば、ずっと小さい。

それでも整った外観には、昔と変わらぬ品のよさが残っていた。

冬の庭は眠ったまま静かで、石段の先に、見慣れた玄関がある。


夫は先に降り、妻のために扉を開ける。

妻は無言のまま車を降りた。


ここまでは付き添ってきた使用人たちも、必要な荷を運び込むとすぐに下がった。

管理人も挨拶だけを済ませて姿を消す。


残されたのは、妻と夫だけだった。


静かだった。


広すぎる今の屋敷とは違う、声を出せばすぐにどこかへ届きそうな、あの頃の家の静けさ。

その空気に触れた瞬間、夫の胸の奥に懐かしさが痛いほど満ちる。


玄関の扉を開け、先に妻を中へ促す。


家の中は暖かく整えられていた。

暖炉には火が入り、廊下の空気も冷たすぎない。

けれど、華やかさではなく、昔のままの慎ましい温もりがそこにはあった。


妻が中へ足を踏み入れる。


夫もその後に続き、扉を閉める。

そして、玄関ホールに立ったまま、自然と口をついて出た。


「……懐かしいな」


そのひと言は、誰かに聞かせるためではなかった。

本当に、そう思ったからだった。


すると、その瞬間。


妻の足が止まった。


夫ははっとして妻を見る。


妻は立ち止まり、ゆっくりと周りを見渡していた。

玄関の壁。

廊下の先。

小さな窓。

階段の手すり。


表情は変わらない。

無表情のままだ。


けれど、何かがそこに触れているのがわかった。


昔の気配。

この家の空気。

まだ彼女がメイドで、自分が今ほど冷酷でなかった頃の時間。


妻はしばらくそうして立っていた。

夫は息を潜めて見守ることしかできない。


やがて、妻がゆっくりと動いた。


夫の方へ向かってくる。


一歩。

また一歩。


夫は戸惑い、思わず身を固くする。

何か言葉が返ってくるのか。

それとも、ただ近づくだけなのか。


次の瞬間、妻はそのまま、夫の胸元へそっと身を寄せた。


そして、抱きしめた。


あまりにも静かな動きだった。

腕を強く回すわけではない。

寄りかかるように、そっと。

けれど確かに、自分から近づいてきて、自分を抱きしめたのだとわかる温度だった。


夫は一瞬、動けなかった。


驚きがそのまま身体を止める。

胸の奥が強く脈打つ。

信じてよいのかもわからず、ただ妻の頭上を見つめる。


だが次の瞬間には、壊れ物を抱くような慎重さで、夫も妻を抱きしめ返していた。


背中へそっと腕を回す。

強くしすぎぬように。

けれど離れぬように。


妻は無表情のままだった。

顔を上げない。

言葉もない。


それでも今、この家に入った途端に、自分へ近づいてきた。

それだけで、夫の胸の奥に溢れるものがあった。


懐かしさ。

痛み。

後悔。

そして、今なお消えぬ愛情。


夫は妻の髪に頬が触れそうなほど近くで、低く囁いた。


「……愛している」


ずっと言えなかった言葉だった。

いや、言わなかった言葉だった。


認めるのが怖くて。

優しくなることで自分が変わってしまうのが怖くて。

そうして逃げ続けた果てに、ようやく今、昔の家の玄関で口にする。


「最初から、ずっと」


声は低く掠れていた。

けれど飾りのない、本心だった。


妻は何も言わない。

無表情のまま、腕の中にいる。

返事も、うなずきもない。


それでも夫は、その沈黙を拒絶とは思わなかった。


今の妻にできる精一杯が、この抱擁なのかもしれない。

言葉の代わりに、昔の空気に押されるように、自分へ近づいてきたこと。

それだけで、今は十分すぎるほどだった。


夫は妻を抱く腕に、ほんの少しだけ力を込める。


「……ありがとう」


そのひと言もまた、自然に漏れた。


この家に来ることを選んでくれたこと。

中へ入り、立ち止まり、思い出の中で自分へ近づいてきてくれたこと。

無言のままでも、その身体で答えを返してくれたこと。


そのすべてが、夫にはありがたかった。


暖炉の火が静かに燃えている。

玄関の向こう、かつて二人が暮らした家の空気が、二人を包んでいる。


妻は無表情で、やはり何も言わなかった。


けれどその腕は、確かに夫に触れていた。

それだけで、夫はこの家へ来てよかったと、初めて心から思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ