妻に似た強さ
それから二年が過ぎた。
結は二十歳になっていた。
娘としてのあどけなさはすっかり薄れ、立ち居振る舞いにも落ち着きが出ている。
それでも、ふとしたときに見せる微笑みや、何かを決めたときの目の強さは、相変わらず妻によく似ていた。
その日の午後、結は父の書斎を訪れた。
扉を叩く音は、いつもより少しだけ硬い。
夫はその気配だけで、今日はただの挨拶ではないとわかった。
「入れ」
結が入ってくる。
姿勢はきちんとしていたが、膝の上で指先を重ねる癖が出ていた。
緊張しているのだろう。
夫は書類を閉じ、向かいの椅子を示した。
「座れ」
「はい」
結は静かに腰を下ろした。
しばらく沈黙が落ちる。
夫は急かさず待った。
やがて結が、意を決したように顔を上げる。
「お父様」
「ああ」
「今日は、大事なお話があって参りました」
その言い方に、夫の胸の内が静かに構える。
相手の見当はついていた。
庭師の息子のことだろうと。
結はまっすぐに父を見る。
「私、あの人と一緒になりたいのです」
夫は黙っていた。
そのひと言は、前に聞いた「恋をしています」より、はるかに重い。
想いではなく、決意として口にしているのがわかる。
「……そうか」
短く返す。
結は小さく息を整え、それから続けた。
「あの人も、私を大切に思ってくれています」
「軽い気持ちではありません」
夫は頷きもせず、ただ娘を見ていた。
結の目に揺らぎはない。
若さゆえの勢いではなく、自分で考えた末にここへ来た目だった。
「お前は」
夫はゆっくりと言葉を選ぶ。
「この家を出るつもりか」
結は迷わず答えた。
「はい」
その即答に、夫の眉がわずかに動く。
結は静かに続ける。
「私は、お父様のあとを継ぐつもりではありません」
「この家に残って、今のまま暮らすことも、選びません」
夫はその言葉を聞きながら、胸の中に複雑なものが広がるのを感じていた。
結は幼い頃から何不自由なく育った。
この屋敷で。
多くの使用人に支えられ、父に守られ、品のある暮らしの中で。
それが悪いことだとは思わない。
そうできるように整えてきたのは自分なのだから。
だが庭師の家の暮らしは違う。
今の屋敷ほどの広さも、使用人の数も、何不自由ない日常もない。
手を動かし、季節に合わせて暮らしを整え、人の手の足りぬところは自分で補うような生活になるだろう。
夫ははっきりと言った。
「これまでの生活とは、大きく違うぞ」
結は黙って聞いている。
「今のように、何でも整えられた家ではない」
「お前が思っている以上に、地道で、手間のかかる暮らしになる」
「この屋敷の娘として過ごしてきた時間とは、まるで違う」
結はその言葉にも目を逸らさなかった。
夫はさらに続ける。
「庭師の妻として生きるというのは、ただ好いた男のそばにいる、というだけでは済まない」
「生活そのものが変わる」
「それでもいいのか」
結は静かに頷いた。
「はい」
「覚悟していると?」
「しております」
その声音は穏やかだった。
だが、芯が通っていた。
結は少し間を置き、それから言う。
「私は、あの人のそばで支えたいのです」
「この家に残って、お父様のあとを継ぐよりも」
「庭師の妻として、あの人の暮らしを一緒に作っていきたい」
その言葉を聞いた瞬間、夫はふと妻を思い出した。
かつて、メイドとして自分のそばにいた頃の妻。
身分も、立場も、暮らしも、今の結とは違った。
だが、自分で選んだ相手のそばにいたいと静かに願うその目の強さは、よく似ていた。
表面はやわらかい。
穏やかに見える。
けれど一度決めたことを、簡単には曲げない。
相手に寄り添うようでいて、その実、自分の意志をまっすぐ持っている。
妻譲りだ、と夫は思った。
それに気づいたとき、胸の中の迷いが少しずつ形を変えていく。
失いたくない。
近くにいてほしい。
娘を手放す寂しさがないわけではない。
だが、その寂しさを理由に止めてはならないことも、今の夫にはよくわかっていた。
昔の自分なら、別の答えを出したかもしれない。
家柄や立場を理由に、あるいはもっと曖昧な支配欲を正論に見せかけて、娘を引き留めようとしたかもしれない。
だが今は違う。
夫はしばらく黙ったあと、ようやく低く言った。
「……そうか」
結は息を詰めるように父を見る。
夫はその視線を受け止めたまま、続ける。
「反対はしない」
結の目が大きく見開かれる。
「お父様……」
「ただし」
夫はそこで少し声を強めた。
「覚悟したと言った言葉を、軽くするな」
「一緒になるなら、最後までその覚悟を持て」
結はまっすぐ頷いた。
「はい」
「支えると言うなら、相手に寄りかかるだけでは駄目だ」
「同じだけ、自分でも立て」
「はい」
その返事に迷いはない。
夫はようやく小さく息をついた。
「……あいつを連れて来い」
結が目を瞬く。
「え?」
「話をする」
「お前を本気で大事に思っているのなら、俺の前でも同じことを言えるだろう」
その言葉に、結の顔がぱっと明るくなる。
「はい……!」
その明るさに、夫は内心苦笑する。
まったく、こういうところも妻に似ている。
普段は落ち着いていても、嬉しいことがあると隠しきれず顔に出る。
結はすぐに立ち上がった。
だが扉の前まで行ってから、ふと振り返る。
「お父様」
「何だ」
結は少しだけ照れながら、それでもうれしそうに言った。
「ありがとうございます」
夫はしばらく娘を見て、それから静かに返す。
「礼を言うのは早い」
「まだ何も終わっていない」
「……はい」
そう言いながらも、結の頬には笑みが浮かんでいた。
扉が閉まる。
ひとり残された書斎で、夫は椅子にもたれた。
胸の内には、寂しさと、安堵と、少しの誇らしさが同時にあった。
妻譲りの芯の強さ。
それを、今、娘の中にはっきりと見た気がした。
きっと妻も、結が自分で選んだ相手のそばへ行くことを、反対はしないだろう。
むしろ、穏やかに微笑んで「結らしいですね」と言うのかもしれない。
夫は左手の結婚指輪へ目を落とした。
そして小さく、誰にも聞こえぬ声で呟く。
「……お前に似ている」
その声には、もう苦さだけではないものが混じっていた。
娘はやがて家を出る。
寂しくないと言えば嘘になる。
それでも、自分で選び、自分で歩いていこうとするのなら、それを止めてはならない。
昔のようにはしない。
そう決めて生きてきた年月が、今ようやく、娘への答えとして形になったのだった。




