表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
51/53

書かなかった言葉

15年前の夜......


静かだった。


寝室の灯りは落としてあり、隣では夫が眠っている。

深くではないが、穏やかな寝息だった。

結ももう休んでいる時間で、屋敷の中には最低限の気配しか残っていない。


妻は、そっと目を開けた。


このところ、夜に目が覚めることが増えていた。

痛みのせいだけではない。

身体の奥で、自分の命が少しずつ遠のいていく気配を、もうごまかせなくなっていたからだ。


最初は、信じたくなかった。


少し熱が出やすいだけ。

少し疲れやすいだけ。

そう思おうとしていた。

だが医師の顔つきも、夫が隠そうとする疲れも、使用人たちの沈んだ気配も、もう十分すぎるほど答えを教えていた。


長くないのだと、妻は悟っていた。


胸の奥がひどく静かになる瞬間がある。

怖くないわけではない。

結を置いていくことも、夫を残していくことも、考えるたびに胸が痛む。

けれど泣いても変わらぬものがあるのなら、その前で取り乱すより、残せるものを残したかった。


妻はそっと身体を起こした。


隣で眠る夫を起こさぬよう、細心の注意を払う。

疲れのせいか、夫もこの頃は眠りに落ちるのが早い。

だがその顔は、眠っているときでさえどこか険しかった。

起きている間じゅう、妻の呼吸や熱を気にし、結の様子を見て、仕事も抱えている。

その緊張が、眠りの中にも滲んでいるようだった。


妻はその横顔を見つめた。


この人は、きっと自分が思う以上に不器用だ。

愛し方を知らず、守り方も知らず、遠回りばかりしてきた。

けれどそれでも、今は誰よりもまっすぐに愛してくれている。


だからこそ、心配だった。


結が幼いうちは、夫には守るべきものがある。

父としての役目がある。

結を抱きしめ、育て、見届けるという責任があるかぎり、この人はきっと立っていられる。


けれど、結が大きくなって。

独り立ちして。

家を出るかもしれない年齢になって。

父としての役目がひと区切りついたとき。


そのあとの夫は、どうなるのだろう。


そのとき初めて、本当の意味でひとりになる。

その孤独を、この人はきっとひどく静かに抱え込む。

誰にも見せず、誰にも頼らず、平然とした顔でやり過ごそうとする。

そして夜になると、ひとりで壊れるのだろう。


妻はそれが怖かった。


自分の死そのものよりも、その先の夫の孤独が怖かった。


机の上に置いてあった便箋とペンを、妻はゆっくり手元へ引き寄せた。

夜のしじまの中で、紙の擦れる音だけが小さく響く。


手紙を書くことを決めたのは、今日が初めてではない。

けれど書き始めるには、今夜しかないと思った。


もし明日、もっと具合が悪くなれば。

もしもう字を綴る気力がなくなれば。

そう思うと、今この手で残しておきたかった。


夫宛の手紙。


最後まで面と向かって言えないこと。

言えばこの人が苦しむとわかっていて、口にはできないこと。

それでも、いつか必要になるかもしれない言葉。


妻はゆっくりと最初の一行を書いた。


――旦那様へ。


それを書いただけで、胸が締め付けられる。


これまで何度、この呼びかけを口にしてきただろう。

メイドだった頃も。

妻になってからも。

壊れたあとで、ようやくまた穏やかに呼べるようになってからも。


旦那様。


その人は今、隣で眠っている。

触れれば届く距離にいる。

けれど、いつか届かなくなるのは自分の方だ。


妻は小さく息を整え、書き続けた。


まず、夫を気遣う言葉を書いた。

食事をきちんと取ってほしいこと。

無理をしすぎないでほしいこと。

夜更けまで書斎に籠もりすぎないでほしいこと。


そういうことを書きながら、妻は少しだけ微笑んだ。


この人はきっと、自分がいなくなったあと、ますます仕事に沈む。

食事も後回しにし、眠ることも忘れて、書類の中へ身を隠す。

そういう姿が目に浮かぶ。


それから、感謝を書いた。


雪の日のこと。

星空のこと。

旧家のこと。

指輪のこと。

同じベッドで眠るようになった夜のこと。

結が生まれてくれた日のこと。


自分は、思っていたよりずっと幸せだったのだと、改めて思う。

若い頃の苦しさも、壊れた時間も、決して消えない。

けれど最後に残ったものが、この人との穏やかな日々でよかったと心から思えた。


そして、愛していると書いた。


その言葉だけは、何度書いても足りない気がした。

夫は今でも、自分が妻を幸せにできたのか、どこかで疑い続けるだろう。

だからこそ、書いておかなければならなかった。


――旦那様をお慕いしております。

――今までも、これからも、私にとって大切なお方です。

――どうか、ご自分を責めすぎないでくださいませ。

――私が幸せだったことを、信じていただけたら嬉しいです。


そこまで書いて、妻の手は止まった。


最後に何を書けばいいのだろう。


本当は、忘れられたくない。


毎日思い出してほしい。

雪の日も、星の夜も、旧家も、指輪も、全部覚えていてほしい。

夫の中で、ずっと消えない人でいたい。


けれど、そう書くのはわがままに思えた。

死にゆく自分が、生き残る人の時間を縛ってはいけない。

この人には、この人のこれからがある。

結を育て、年を重ね、寂しさとともにそれでも生きていかなければならない。


だから妻は、少しだけ笑って、少しだけ泣きたい気持ちを飲み込みながら書いた。


――たまに、私のことを思い出してくだされば、それで十分です。


たまに、では足りない。

本当はそう思っている。


けれど、その嘘はやさしさでありたかった。


書き終えるころには、指先が少し震えていた。

体力も、思っていた以上に削られている。

それでも妻は便箋を丁寧に畳み、封筒へ入れた。


朝まで待つことはできない気がした。


今、託してしまわなければ、気持ちが揺らいでしまうかもしれない。

弱気になって、破ってしまうかもしれない。


妻はゆっくり立ち上がった。


夫を起こさぬように部屋を出る。

廊下はひっそりとしていた。


その先で、ちょうど見回りを終えた相馬が足を止める。


「奥様?」


驚いた声だった。

この時間に、こんな顔色で立っているとは思わなかったのだろう。


「どうなさいました。お加減が」


「相馬さん」


妻は小さく微笑んだ。

相馬は、使用人時代からずっと変わらず、自分を気にかけてくれていた人だ。

冷たい時期も、壊れたあとも、そして今も。


「少し、お願いがございます」


相馬の顔つきが変わる。

ただの夜更けの頼みではないと察したのだろう。


「こちらへ」


相馬はすぐに近くの小さな応接室の灯りをつけた。

妻が座るのを見届けてから、静かに向き直る。


「何なりと」


妻は封筒を両手で持ったまま、相馬を見た。


「これを……旦那様へ」


相馬は受け取ろうとして、ふと手を止める。

封筒の宛名を見たのだ。


「奥様、これは」


「手紙です」


妻は静かに答えた。


「今はまだ、お渡ししないでくださいませ」


相馬は封筒を見つめ、それから妻の顔を見る。

何を意味する頼みなのか、理解してしまったのだろう。

目に深い影が落ちる。


「いつ、お渡しすれば」


妻は少しだけ息を整えた。


「結が十八になる頃に」


相馬の眉がわずかに動く。


「十八歳……」


「ええ」


妻は頷く。


「結がいつ家を出てもおかしくない年齢になった頃です」

「その頃なら、旦那様がいちばんお寂しくなられる気がするのです」


相馬は何も言わない。

ただ、強く唇を結んでいる。


妻は続けた。


「もし……」


少し迷ってから、言葉を継ぐ。


「その頃になっても、旦那様がまだ私のことを思い出すのがおつらいようでしたら」

「無理に読ませなくてもよいかもしれない、とも思ったのですが……」


相馬はすぐに首を横に振った。


「必ずお渡しいたします」


その声には迷いがなかった。


妻は目を瞬く。


「相馬さん」


「旦那様は、お受け取りになります」


相馬は静かに、だがはっきりと言った。


「それがどれほどおつらくても、奥様のお言葉を受け取らぬような方ではございません」


妻はしばらく相馬を見つめ、それから小さく苦笑した。


「……そうかもしれませんね」


その返しに、相馬もほんのわずかだけ目元をやわらげた。


妻は封筒をそっと差し出した。

相馬は両手で、まるで壊れ物を預かるようにそれを受け取る。


妻は静かに言った。


「今まで、本当にありがとうございました」


相馬の目がわずかに揺れる。


「使用人の頃から、ずっとお世話になりました」

「旦那様がどれほど不器用でも、相馬さんがいてくださったから、私は何度も助けられました」


相馬は深く目を伏せた。


「もったいないお言葉です」


「それでも、申し上げたいのです」


妻は穏やかに微笑んだ。


「どうか、旦那様と結をお願いいたします」


そのひと言に、相馬は深く、深く頭を下げた。


「お任せください」


声は少し震えていた。


「命ある限り、お二人をお支えいたします」


妻はそれを聞いて、胸の内の重さが少しだけ軽くなるのを感じた。

完全に安心できるわけではない。

それでも、託せる人がいることはありがたかった。


相馬が顔を上げたとき、妻はもう立ち上がっていた。


「お部屋までお送りいたします」


「大丈夫です」


「奥様」


「大丈夫です、相馬さん」


そう言って妻は、ほんの少しだけやわらかな目をした。


「今夜は、自分で戻りたいのです」


相馬はそれ以上は言わず、ただ一礼した。


「かしこまりました」


廊下へ戻る。


手紙はもう、自分の手を離れた。

少しだけ寂しく、少しだけ安堵する。


寝室へ戻ると、夫はまだ眠っていた。

同じように少し険しい顔で、それでも妻のいる側へ身体がわずかに寄っている。


妻はそっと寝台へ戻り、その横顔を見つめた。


忘れられたくない。


本当は、たまにでは足りない。

毎日でも思い出してほしい。

これから先も、ずっと愛していてほしい。


けれど、それはもう、書かなかった言葉だ。


妻は小さく微笑み、眠る夫の手の近くへそっと自分の手を置いた。


指には、結婚指輪がある。

同じ指輪。

同じ時間。

同じ夜。


そのぬくもりを最後まで覚えていたいと思いながら、妻は静かに目を閉じた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ