書かなかった言葉
15年前の夜......
静かだった。
寝室の灯りは落としてあり、隣では夫が眠っている。
深くではないが、穏やかな寝息だった。
結ももう休んでいる時間で、屋敷の中には最低限の気配しか残っていない。
妻は、そっと目を開けた。
このところ、夜に目が覚めることが増えていた。
痛みのせいだけではない。
身体の奥で、自分の命が少しずつ遠のいていく気配を、もうごまかせなくなっていたからだ。
最初は、信じたくなかった。
少し熱が出やすいだけ。
少し疲れやすいだけ。
そう思おうとしていた。
だが医師の顔つきも、夫が隠そうとする疲れも、使用人たちの沈んだ気配も、もう十分すぎるほど答えを教えていた。
長くないのだと、妻は悟っていた。
胸の奥がひどく静かになる瞬間がある。
怖くないわけではない。
結を置いていくことも、夫を残していくことも、考えるたびに胸が痛む。
けれど泣いても変わらぬものがあるのなら、その前で取り乱すより、残せるものを残したかった。
妻はそっと身体を起こした。
隣で眠る夫を起こさぬよう、細心の注意を払う。
疲れのせいか、夫もこの頃は眠りに落ちるのが早い。
だがその顔は、眠っているときでさえどこか険しかった。
起きている間じゅう、妻の呼吸や熱を気にし、結の様子を見て、仕事も抱えている。
その緊張が、眠りの中にも滲んでいるようだった。
妻はその横顔を見つめた。
この人は、きっと自分が思う以上に不器用だ。
愛し方を知らず、守り方も知らず、遠回りばかりしてきた。
けれどそれでも、今は誰よりもまっすぐに愛してくれている。
だからこそ、心配だった。
結が幼いうちは、夫には守るべきものがある。
父としての役目がある。
結を抱きしめ、育て、見届けるという責任があるかぎり、この人はきっと立っていられる。
けれど、結が大きくなって。
独り立ちして。
家を出るかもしれない年齢になって。
父としての役目がひと区切りついたとき。
そのあとの夫は、どうなるのだろう。
そのとき初めて、本当の意味でひとりになる。
その孤独を、この人はきっとひどく静かに抱え込む。
誰にも見せず、誰にも頼らず、平然とした顔でやり過ごそうとする。
そして夜になると、ひとりで壊れるのだろう。
妻はそれが怖かった。
自分の死そのものよりも、その先の夫の孤独が怖かった。
机の上に置いてあった便箋とペンを、妻はゆっくり手元へ引き寄せた。
夜のしじまの中で、紙の擦れる音だけが小さく響く。
手紙を書くことを決めたのは、今日が初めてではない。
けれど書き始めるには、今夜しかないと思った。
もし明日、もっと具合が悪くなれば。
もしもう字を綴る気力がなくなれば。
そう思うと、今この手で残しておきたかった。
夫宛の手紙。
最後まで面と向かって言えないこと。
言えばこの人が苦しむとわかっていて、口にはできないこと。
それでも、いつか必要になるかもしれない言葉。
妻はゆっくりと最初の一行を書いた。
――旦那様へ。
それを書いただけで、胸が締め付けられる。
これまで何度、この呼びかけを口にしてきただろう。
メイドだった頃も。
妻になってからも。
壊れたあとで、ようやくまた穏やかに呼べるようになってからも。
旦那様。
その人は今、隣で眠っている。
触れれば届く距離にいる。
けれど、いつか届かなくなるのは自分の方だ。
妻は小さく息を整え、書き続けた。
まず、夫を気遣う言葉を書いた。
食事をきちんと取ってほしいこと。
無理をしすぎないでほしいこと。
夜更けまで書斎に籠もりすぎないでほしいこと。
そういうことを書きながら、妻は少しだけ微笑んだ。
この人はきっと、自分がいなくなったあと、ますます仕事に沈む。
食事も後回しにし、眠ることも忘れて、書類の中へ身を隠す。
そういう姿が目に浮かぶ。
それから、感謝を書いた。
雪の日のこと。
星空のこと。
旧家のこと。
指輪のこと。
同じベッドで眠るようになった夜のこと。
結が生まれてくれた日のこと。
自分は、思っていたよりずっと幸せだったのだと、改めて思う。
若い頃の苦しさも、壊れた時間も、決して消えない。
けれど最後に残ったものが、この人との穏やかな日々でよかったと心から思えた。
そして、愛していると書いた。
その言葉だけは、何度書いても足りない気がした。
夫は今でも、自分が妻を幸せにできたのか、どこかで疑い続けるだろう。
だからこそ、書いておかなければならなかった。
――旦那様をお慕いしております。
――今までも、これからも、私にとって大切なお方です。
――どうか、ご自分を責めすぎないでくださいませ。
――私が幸せだったことを、信じていただけたら嬉しいです。
そこまで書いて、妻の手は止まった。
最後に何を書けばいいのだろう。
本当は、忘れられたくない。
毎日思い出してほしい。
雪の日も、星の夜も、旧家も、指輪も、全部覚えていてほしい。
夫の中で、ずっと消えない人でいたい。
けれど、そう書くのはわがままに思えた。
死にゆく自分が、生き残る人の時間を縛ってはいけない。
この人には、この人のこれからがある。
結を育て、年を重ね、寂しさとともにそれでも生きていかなければならない。
だから妻は、少しだけ笑って、少しだけ泣きたい気持ちを飲み込みながら書いた。
――たまに、私のことを思い出してくだされば、それで十分です。
たまに、では足りない。
本当はそう思っている。
けれど、その嘘はやさしさでありたかった。
書き終えるころには、指先が少し震えていた。
体力も、思っていた以上に削られている。
それでも妻は便箋を丁寧に畳み、封筒へ入れた。
朝まで待つことはできない気がした。
今、託してしまわなければ、気持ちが揺らいでしまうかもしれない。
弱気になって、破ってしまうかもしれない。
妻はゆっくり立ち上がった。
夫を起こさぬように部屋を出る。
廊下はひっそりとしていた。
その先で、ちょうど見回りを終えた相馬が足を止める。
「奥様?」
驚いた声だった。
この時間に、こんな顔色で立っているとは思わなかったのだろう。
「どうなさいました。お加減が」
「相馬さん」
妻は小さく微笑んだ。
相馬は、使用人時代からずっと変わらず、自分を気にかけてくれていた人だ。
冷たい時期も、壊れたあとも、そして今も。
「少し、お願いがございます」
相馬の顔つきが変わる。
ただの夜更けの頼みではないと察したのだろう。
「こちらへ」
相馬はすぐに近くの小さな応接室の灯りをつけた。
妻が座るのを見届けてから、静かに向き直る。
「何なりと」
妻は封筒を両手で持ったまま、相馬を見た。
「これを……旦那様へ」
相馬は受け取ろうとして、ふと手を止める。
封筒の宛名を見たのだ。
「奥様、これは」
「手紙です」
妻は静かに答えた。
「今はまだ、お渡ししないでくださいませ」
相馬は封筒を見つめ、それから妻の顔を見る。
何を意味する頼みなのか、理解してしまったのだろう。
目に深い影が落ちる。
「いつ、お渡しすれば」
妻は少しだけ息を整えた。
「結が十八になる頃に」
相馬の眉がわずかに動く。
「十八歳……」
「ええ」
妻は頷く。
「結がいつ家を出てもおかしくない年齢になった頃です」
「その頃なら、旦那様がいちばんお寂しくなられる気がするのです」
相馬は何も言わない。
ただ、強く唇を結んでいる。
妻は続けた。
「もし……」
少し迷ってから、言葉を継ぐ。
「その頃になっても、旦那様がまだ私のことを思い出すのがおつらいようでしたら」
「無理に読ませなくてもよいかもしれない、とも思ったのですが……」
相馬はすぐに首を横に振った。
「必ずお渡しいたします」
その声には迷いがなかった。
妻は目を瞬く。
「相馬さん」
「旦那様は、お受け取りになります」
相馬は静かに、だがはっきりと言った。
「それがどれほどおつらくても、奥様のお言葉を受け取らぬような方ではございません」
妻はしばらく相馬を見つめ、それから小さく苦笑した。
「……そうかもしれませんね」
その返しに、相馬もほんのわずかだけ目元をやわらげた。
妻は封筒をそっと差し出した。
相馬は両手で、まるで壊れ物を預かるようにそれを受け取る。
妻は静かに言った。
「今まで、本当にありがとうございました」
相馬の目がわずかに揺れる。
「使用人の頃から、ずっとお世話になりました」
「旦那様がどれほど不器用でも、相馬さんがいてくださったから、私は何度も助けられました」
相馬は深く目を伏せた。
「もったいないお言葉です」
「それでも、申し上げたいのです」
妻は穏やかに微笑んだ。
「どうか、旦那様と結をお願いいたします」
そのひと言に、相馬は深く、深く頭を下げた。
「お任せください」
声は少し震えていた。
「命ある限り、お二人をお支えいたします」
妻はそれを聞いて、胸の内の重さが少しだけ軽くなるのを感じた。
完全に安心できるわけではない。
それでも、託せる人がいることはありがたかった。
相馬が顔を上げたとき、妻はもう立ち上がっていた。
「お部屋までお送りいたします」
「大丈夫です」
「奥様」
「大丈夫です、相馬さん」
そう言って妻は、ほんの少しだけやわらかな目をした。
「今夜は、自分で戻りたいのです」
相馬はそれ以上は言わず、ただ一礼した。
「かしこまりました」
廊下へ戻る。
手紙はもう、自分の手を離れた。
少しだけ寂しく、少しだけ安堵する。
寝室へ戻ると、夫はまだ眠っていた。
同じように少し険しい顔で、それでも妻のいる側へ身体がわずかに寄っている。
妻はそっと寝台へ戻り、その横顔を見つめた。
忘れられたくない。
本当は、たまにでは足りない。
毎日でも思い出してほしい。
これから先も、ずっと愛していてほしい。
けれど、それはもう、書かなかった言葉だ。
妻は小さく微笑み、眠る夫の手の近くへそっと自分の手を置いた。
指には、結婚指輪がある。
同じ指輪。
同じ時間。
同じ夜。
そのぬくもりを最後まで覚えていたいと思いながら、妻は静かに目を閉じた。




