十五年越しの贈り物
夫の誕生日は、毎年ひっそりと過ぎていく。
若い頃のように、使用人たちが過度に緊張して立ち働くこともない。
もちろん祝いの言葉はある。
相馬をはじめ、長く仕える者たちは朝にきちんと一礼し、「お誕生日おめでとうございます」と告げる。
結もまた、毎年欠かさず心ばかりの品を贈ってくれる。
けれど、大きな催しはしない。
それでよかった。
華やかに祝われることより、静かな一日の中で、ささやかな温度がある方が今の夫には似合っていた。
その年、夫は四十九歳になろうとしていた。
朝もいつも通りだった。
使用人たちから祝辞を受け、結からは小さな包みを渡された。
今年は革の栞だった。
「お父様、書斎でお使いください」と少し照れたように言う娘に、夫は静かに礼を言った。
「ありがとう」
結は嬉しそうに笑った。
「去年の万年筆よりは、実用的だと思います」
「去年のも使っている」
「本当ですか」
「ああ」
そんな小さな会話があるだけで、十分だった。
今年もまた、変わらぬ誕生日になるはずだった。
昼過ぎ、夫は書斎にいた。
窓の外には穏やかな季節の光が差している。
机の上には必要最低限の書類だけ。
誕生日だからといって休みにはしないが、昔のように自分を仕事に埋めることもなくなっていた。
そのとき、扉が静かに叩かれた。
「旦那様」
相馬だった。
「入れ」
扉が開く。
相馬はいつも通り整った姿勢で一礼したが、その手には一通の封書があった。
夫はそれを見て、わずかに眉を寄せる。
「何だ」
相馬は数歩進み、封書を両手で差し出した。
「こちらを、お渡しするよう託されておりました」
夫は封筒を受け取る。
見覚えのある字がそこにあった。
一瞬、呼吸が止まる。
妻の字だった。
もう十五年も見ていなかったはずなのに、ひと目でわかった。
やわらかく、整っていて、どこか控えめなその文字を、見間違えるはずがなかった。
夫は低く問う。
「……どういうことだ」
相馬は静かに答える。
「奥様が、ご生前に」
その言葉を聞いた瞬間、部屋の空気が変わった気がした。
「結お嬢様がいつ家を出てもおかしくない年齢になった頃に、旦那様へお渡しするようにと」
「私へ託されておりました」
夫は封筒を見つめたまま動けなかった。
十五年越しの手紙。
なぜ今。
なぜ、この年になって。
そう思う一方で、妻ならそうするかもしれないとも思えた。
結が幼いあいだは、夫には娘を守るという役目があった。
だが、娘が大人になり、いつかこの家を離れていくかもしれない年になれば――そのとき初めて、夫は本当の意味でひとりになる。
そのことを、妻は見越していたのかもしれない。
相馬は深く頭を下げた。
「私からは、これ以上何も申し上げません」
「どうか、お一人で」
「ああ」
夫はかろうじてそれだけ返した。
相馬が静かに部屋を出ていく。
扉が閉まる。
書斎には、夫と一通の手紙だけが残された。
夫はしばらく封を切ることができなかった。
妻の字がそこにある。
もう届くはずのない人から、今、言葉が届こうとしている。
やがてようやく、指先で封を開いた。
便箋を取り出す。
そこにも、妻の手で綴られた文字が並んでいる。
夫はゆっくり読み始めた。
――旦那様へ。
たったその書き出しだけで、胸の奥が強く揺れる。
手紙の中の妻は、いつものように穏やかだった。
まず、夫を気遣う言葉があった。
無理をしすぎていないか。
食事はきちんと取っているか。
結に厳しすぎないか。
たまには花を見て、季節を感じているか。
それから、感謝が綴られていた。
一緒に過ごした時間。
旧家での思い出。
雪の日。星空。指輪。
結が生まれてからの喜び。
短かったけれど、たしかに幸せだった日々。
そして最後には、愛の言葉があった。
――旦那様をお慕いしております。
――今までも、これからも、私にとって大切なお方です。
――どうか、あまりご自身を責めすぎないでくださいませ。
――私が幸せだったことを、信じていただけたら嬉しいです。
文字を追うたび、夫の視界は少しずつ滲んでいった。
妻は、知っていたのだ。
自分がどれだけ長く後悔を抱えて生きる人間か。
どれだけ不器用に、いつまでも過去を離せずにいるか。
そのうえで、それでもなお気遣い、愛していると書き残していた。
夫は便箋を持ったまま、ついに目を閉じた。
涙が、一筋、頬を伝う。
それは静かなものだった。
嗚咽も、崩れるような声もない。
だがたしかに、泣いていた。
誰かの前で泣くことはない。
そう決めて生きてきた。
妻が亡くなったあの日以来、涙を見せたことはなかった。
それでも今、この手紙の前ではどうしようもなかった。
「あいつは……」
掠れた声が漏れる。
「最後まで……」
言葉が続かない。
妻が亡くなった日の痛みとは違う涙だった。
あの日はただ奪われた痛みだった。
今は、十五年を越えてなお届いた愛情の深さに、胸が満ちすぎてしまった涙だった。
そのとき、扉が叩かれた。
夫はすぐには返事ができなかった。
もう一度、遠慮がちなノック。
「お父様?」
結の声だった。
結は、改めて誕生日を祝うつもりで来たのだろう。
夕方にでもお茶を一緒に、そう朝に言いかけてやめていたことを、夫は思い出した。
夫は目元を指で押さえ、低く返す。
「……入れ」
扉が開く。
結は最初、いつもの穏やかな顔で入ってきた。
だがすぐに、その表情が変わる。
父の手の中の便箋。
そして、頬に残る涙の気配。
結は足を止めた。
「お父様……?」
夫は手紙を静かに畳んだ。
隠す気にはなれなかった。
「母親からだ」
結の目が見開かれる。
「お母様の……?」
「ああ」
夫は便箋を見下ろし、それから娘へ向けた。
「十五年前に、相馬へ託していたらしい」
結はゆっくりと近づき、父のそばまで来た。
その目に驚きと、やわらかな痛みが同時に浮かんでいる。
「……そうだったのですね」
夫は小さく頷いた。
結は、父の左手の結婚指輪を見た。
それから机の端に置かれている、あのクマのぬいぐるみにも目をやる。
旧家の近くの街で妻が欲しいと言った、小さなクマ。
書斎の中で、今も変わらず妻の気配を残しているもの。
その二つを見たとき、結の胸に何かがすとんと落ちたようだった。
父と母が、どれほど深く愛し合っていたのか。
父が今もどれほど母を大事に思っているのか。
それが、言葉よりもはっきりとわかる。
結は静かに言った。
「……お父様は、本当にお母様を愛していたのですね」
夫は少しだけ目を伏せた。
「ああ」
その返事に迷いはなかった。
結はやわらかく微笑む。
少し切なく、それでもどこかあたたかい笑みだった。
夫は娘を見る。
「お前の母親以上に愛せる人はいない」
結は黙って聞いている。
夫は続けた。
「これからも、きっとそうだ」
その言葉に、結の目がわずかに潤む。
けれど夫はさらに静かに言葉を重ねた。
「だが」
一度、結婚指輪に視線を落とし、それから娘を見る。
「同じくらい大事な人はいる」
結が少し首を傾げる。
「それは……」
夫は、ごくわずかに微笑んだ。
「お前だ」
結は一瞬、言葉を失ったように見えた。
それから少し照れたように目を伏せ、けれど嬉しそうに笑った。
「……ずるいです、お父様」
「何がだ」
「そういうことを、急に仰るからです」
夫は何も言わなかった。
だがその顔には、珍しく穏やかなやわらぎがあった。
結はその表情を見て、胸の奥があたたかくなるのを感じる。
母と父の深い絆を、改めて実感する。
そして、その愛の中に自分もまた確かに含まれているのだと知る。
結はそっと父のそばへ歩み寄った。
「お誕生日、おめでとうございます」
今度は改めて、きちんと。
夫は手紙を机に置き、娘を見た。
「ああ」
それから静かに言い添える。
「ありがとう」
書斎の中には、もう涙の気配さえ穏やかに溶けていた。
十五年越しに届いた妻の言葉。
そして、その場に立つ娘の存在。
夫は胸の内で思う。
妻以上に愛せる人はいない。
それは変わらない。
だが、妻と同じくらい大事なものなら、たしかにここにある。
それが結なのだと、今はもうはっきりわかっていた。




