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一つでは寂しいから

冬の朝だった。


夜のうちに降った雪が、屋敷の庭を白く覆っていた。

石畳も、木々の枝も、花壇の縁も、どこもかしこもやわらかな白に沈んでいる。

空は薄く晴れ、静かな光がその雪の上に淡く落ちていた。


夫は窓辺に立ち、その景色を見ていた。


雪を見ると、どうしても思い出す。

妻と雪だるまを作った、あの日のことを。


まだ妻の心が壊れたままで、無表情のまま何も言わなかった頃。

雪の朝に初めて「雪」と呟き、外へ出るかと聞くと頷いたこと。

そして庭で、自ら雪に触れ、雪だるまを作り始めたこと。


ひとつ目ができあがったあと、自分が戻ろうと言っても、妻は何も言わずもうひとつ作り始めた。

そうして二つ並んだ雪だるまを見て、妻は小さく言ったのだ。


――一人は、寂しい。


その声も、その無表情のまま流れた涙も、今も胸の奥に鮮明に残っている。


夫は静かに目を閉じ、それから外套を取った。


今日は妙に、ただ見ているだけではいられなかった。

雪に触れたかった。

あの日の冷たさを、もう一度この手で確かめてみたかった。


ひとりで庭へ出る。


扉を開けると、冷えた空気が頬を打つ。

冬の匂い。

靴の下で雪がきしむ音。

その一つひとつが、記憶をさらに濃くした。


夫は庭の真ん中あたりまで歩いていき、しゃがみ込んだ。


何をしようと決めていたわけではない。

ただ、手袋越しに雪へ触れ、そのまま何気なく雪を掬い、丸め始める。


掌の中で、白い塊が少しずつ形を持つ。

それを地面に置き、転がし、また整える。


気づけば、雪だるまを作っていた。


自分でも小さく苦笑する。

まったく、自分らしくない。


だが、あの日の妻の手つきを思い出すと、妙に自然なことのようにも思えた。


しばらくして、小さな雪だるまが形になってきたころ。


「お父様?」


後ろから、結の声がした。


夫が振り返ると、結が外套を羽織ったまま庭へ出てきていた。

頬に冬の冷気を受け、髪には小さな雪がひとひら落ちている。


「何をしているのですか」


夫は雪だるまへ目をやる。


「……見ればわかるだろう」


結は少し目を丸くし、それからくすっと笑った。


「雪だるま、ですか」


「ああ」


「お父様が?」


その言い方に、夫はわずかに眉を寄せる。


「悪いか」


「いいえ」


結はすぐに首を振り、やわらかく続けた。


「少し意外でした」


そう言う顔が、また妻に似ていた。

夫は小さく息をつく。


すると結は、ためらいなく夫のそばへ歩いてきた。


「私も一緒に作っていいですか」


夫は少しだけ間を置き、それから頷く。


「好きにしろ」


「はい」


結は嬉しそうにしゃがみ込み、夫の隣で雪を集め始めた。


その仕草は妻とは違う。

結はもう少し素直で、動きに迷いがない。

けれど雪に触れたときの、少し楽しそうな目のやわらぎ方はやはりどこか似ていた。


「これくらいですか」


「もう少し丸くしろ」


「こう?」


「ああ」


二人で並んで雪を整える。

しばらくすると、一つ目の雪だるまが出来上がった。


結は立ち上がってそれを見下ろし、満足そうに笑う。


「かわいいですね」


夫もその小さな雪だるまを見る。


「そうだな」


結はしばらく眺めていたが、やがてまたしゃがみ込み、今度は少し離れた場所の雪を集め始めた。


夫はその動きに気づく。


「何をしている」


結は手を止めずに答える。


「もう一個、作ります」


夫の胸が、かすかに揺れる。


「……もう一個か」


「はい」


結は当然のように頷く。


「一個だと、寂しいですから」


そのひと言に、夫の手が止まった。


一個だと、寂しい。


あまりにも同じだった。


昔、妻が二つ目の雪だるまを作った理由と、ほとんど同じ言葉。

結はそのことを知るはずがない。

あの日のことは、話していない。

雪だるまの前で妻が何を呟いたのかも、結は知らない。


それでも今、目の前で娘が同じことを言う。


夫はしばらく何も返せなかった。


結はそんな父の胸中など知らず、無邪気に続ける。


「並んでいた方が、かわいいでしょう?」


夫は娘の横顔を見つめた。

その口元も、目元も、光の受け方さえも、妻に似ている。


「……そうだな」


ようやくそれだけ答える。


結は嬉しそうに雪を転がし始める。


夫も黙って、その隣へもう一度しゃがみ込んだ。


「手伝ってくださいますか」


「仕方ない」


「ふふ」


その笑い声に、夫の胸の奥が少しだけ痛み、同時にあたたかくなる。


二つ目の雪だるまを作りながら、妻の顔が浮かぶ。

無表情のまま涙を流し、「旦那様」と呼び、「会いたい」と呟いた、あの雪の朝。

もう会えない。

それでも、こうして娘の言葉の中に、妻の気配がふいに宿ることがある。


やがて二つ目も完成した。


小さな雪だるまが二つ、並んで立つ。

一つでは寂しかったものが、二つになるだけで不思議と落ち着いて見える。


結はその前に立ち、満足そうに言う。


「やっぱり、二つの方がいいですね」


夫はその言葉に、静かに頷いた。


「ああ」


結が不思議そうに父を見上げる。


「お父様?」


「何でもない」


そう答えながらも、視線は二つの雪だるまから離れない。


一つでは寂しいから。

そう言って二つ作った妻のことを、今、娘が知らずに繰り返している。


偶然なのだろう。

それでも、こういう瞬間に夫は思う。

妻は本当にいなくなってしまったのに、完全には消えないのだと。


娘の顔に。

娘の笑い方に。

そしてこんな何気ない雪の日の言葉に。


結は屈んで、雪だるまの頭の形を少し直しながら言う。


「お父様」


「何だ」


「また雪が降ったら、今度はもっと大きいのを作りましょう」


夫は娘を見る。


その笑顔が明るくて、まっすぐで、少しだけ妻に似ていた。


「……ああ」


夫は静かに答える。


「そうしよう」


冬の庭には、二つの雪だるまが並んでいた。

その前に立つ父と娘の影もまた、雪の上に並んでいる。


一つでは寂しいから。


その言葉は十五年の歳月を越えて、もう会えない妻の気配をそっと連れてきた。

夫は胸の奥の寂しさごと、その小さな雪だるまたちを静かに見つめていた。

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