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今までも、これからも

結が書斎を出ていったあと、部屋にはまた静けさが戻った。


夫はしばらく、そのまま動かなかった。

娘の恋の話を聞いた余韻はまだ胸に残っている。

だが、それとは別のものが、ゆっくりと内側から浮かび上がってきていた。


夫は左手を見た。


薬指の結婚指輪。

長い歳月を経て、表面にはわずかな傷もある。

それでも外したことはない。

今もこうして、そこにある。


その指輪を見つめた瞬間、記憶は自然とあの頃へ戻っていった。


妻が病に伏せていた頃。


結がまだ四歳で、屋敷の中に不安が静かに広がっていた日々。

妻は痩せ、熱を繰り返し、時折ひどく息苦しそうにしながら、それでも夫や結の前では穏やかな顔を崩さなかった。


今になればわかる。

あの微笑みの裏に、苦しさがなかったはずがない。


痛みも、息苦しさも、不安も、恐れも、きっとあった。

自分の命がそう長くないことを、妻自身も薄々感じていたはずだ。


それでも、妻はいつも微笑んでいた。


無理に明るく振る舞うのではない。

ただ、夫や結を見れば、やわらかく目を細め、穏やかな顔で「大丈夫です」と言うような、そんな微笑みだった。


あの頃の夫は、何とかしてやりたかった。


金も、医師も、薬も、できる限りのものは用意した。

だがどれも足りなかった。

自分の力でどうにかならないものが、この世にはあるのだと、嫌というほど思い知らされる日々だった。


ある夕方のことだった。


妻は寝台にもたれていた。

窓からは淡い光が差している。

結はメイドに預けられていて、その部屋には二人だけだった。


呼吸は少し浅い。

それでも、その日は比較的穏やかな時間だった。


夫は寝台の傍らに座り、妻の顔を見ていた。

痩せた頬。

細くなった指。

それでも、その目だけはまだやわらかく、自分を見ていた。


夫は低く尋ねた。


「何か欲しいものはないか」


妻は少し目を瞬かせた。


「欲しいもの、ですか」


「ああ」


夫は続ける。


「何でもいい。食べたいものでも、見たいものでも、欲しいものでも」

「今さら何でも遅いのかもしれないが……それでも、お前が望むなら」


その言葉の奥には、後悔が滲んでいた。

もっと早く聞くべきだった。

もっと早く、欲しいものを口にできる相手であるべきだった。

そんな思いが、自分でも隠しきれなかった。


妻はしばらく黙っていた。


考えているというより、夫の顔を見ているようだった。

やがて、ほんの少しだけ微笑んだ。


「では……」


声は弱い。

けれど、穏やかだった。


「旦那様の笑顔が、欲しいです」


夫は言葉を失った。


笑顔。


宝石でも、着物でもない。

何か特別な品でもない。

ただ、自分の笑顔が欲しいと、妻は言った。


あまりにも妻らしい答えだった。

そしてあまりにも、自分が与え損ねてきたものだった。


夫は何か言おうとして、うまく声が出ない。

妻はそんな夫の沈黙を責めるでもなく、やわらかく続けた。


「旦那様は、笑っておられる方が素敵です」


その言葉に、夫の喉が強く詰まる。


妻は痩せた手をそっと伸ばし、夫の手の上へ重ねた。


「今まで、たくさんいただきました」


「……何を」


ようやく絞り出した声に、妻は目を細める。


「安心も」

「ぬくもりも」

「一緒に眠る夜も」

「同じ食卓も」

「指輪も」


薬指の結婚指輪が、窓からの光の中で静かに光っていた。


「だから、感謝しています」


夫は首を振った。


「感謝するのは俺の方だ」


だが妻はかすかに微笑んだまま、静かに続ける。


「それでも、申し上げたいのです」


そして少し息を整えるようにしてから、言った。


「もし、いつか」


そのひと言で、夫の胸の奥に嫌な予感が走る。


「結と旦那様を、大事に思ってくださる方が現れたのなら……」


夫の表情が強張る。


妻はなおもやわらかく、残酷なほど穏やかに言った。


「迷わず、再婚なさってください」


「よせ」


夫はすぐに遮った。


声が少し荒くなる。

けれど妻は怯まなかった。


「結には、母親のように寄り添ってくださる方が必要になるかもしれません」

「旦那様も……おひとりでは」


「よせ」


今度はもっとはっきり言った。


妻はそれでも、どこまでも穏やかな眼差しを崩さなかった。


「私は、もう十分に幸せでした」


そのひと言が、夫にはたまらなかった。


幸せだったのか。

本当に。

地下室も、壊れた心も、そのあとも全部越えて、それでもそう言うのか。


妻はさらに、微笑みながら言った。


「ですから、たまに私を思い出してくだされば、それで」


たまに。


その言葉に、夫はとうとう耐えられなくなった。


「できるわけがない」


妻が静かに夫を見る。


夫は首を振った。

今度はもう、取り繕うことができなかった。


「今までも、これからも、お前だけだ」


声が掠れる。

それでもはっきりと言う。


「ほかの誰かなど考えられない」

「結のためだろうが、何だろうが、そんなことは関係ない」

「俺は、お前以外を妻にするつもりはない」


妻はしばらく黙ってその言葉を聞いていた。

やがて、本当にやさしく微笑んだ。


それは、慰めるようでもあり、困った人を見るようでもあり、そしてやはり、夫を深く愛している人の顔だった。


「……旦那様らしいですね」


夫はそれ以上何も言えなかった。


妻の部屋を出たあと、扉が閉まったところで、ようやく肩から力が抜けた。


廊下には誰もいない。

夕方の薄い光だけが、静かに床へ落ちている。


そのとき、夫の目からひと筋の涙がこぼれた。


音もなく。

ただ、まっすぐに。


その涙を拭うこともせず、夫はしばらく立ち尽くした。


今も、あのときの妻の表情が忘れられない。


穏やかで、やわらかくて、どこか達観したようで、それでもちゃんと愛があった。

再婚してほしいとまで言いながら、自分のことは「たまに思い出してくれれば」と笑った、あの顔。


たまに、では足りない。


十五年経った今も、夫はそう思う。


春の花を見ても。

雪の朝を見ても。

結が微笑むのを見ても。

書斎の窓辺のクマのぬいぐるみを見ても。

薬指の指輪に触れても。


思い出さない日は、一日もない。


夫は静かに左手の指輪を撫でた。


忘れられない。

そして忘れたくもない。


あのとき妻が欲しいと言ったのは、自分の笑顔だった。

それなのに、今の自分の胸にあるのは、笑おうとするたびに疼く寂しさでもあった。


それでも、妻が望んだように生きていくしかないのだろう。

結を守り、穏やかに歳を重ね、それでもなお妻を愛したまま。


書斎の静かな空気の中で、夫は目を閉じる。


そして胸の内で、何度目になるかわからない言葉を、妻へ向けて呟いた。


――今までも、これからも、お前だけだ。

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