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受け継がれるもの

次の休日、夫は書斎にいた。


休日とはいえ、完全に仕事から離れられる性分ではない。

もっとも、昔ほど長く机に縛りつけられることもなくなっていた。

必要な書類に目を通し、署名を終え、あとは静かな午後を過ごすだけだった。


窓の外には、春の庭が広がっている。

花壇には色が戻り、風もずいぶんやわらかくなっていた。


そのとき、扉が控えめに叩かれた。


「お父様」


「入れ」


扉が開き、結が姿を見せる。


十八になった娘は、やはり妻に似ていた。

背筋の伸びた立ち方も、目元のやわらかさも、何かを言う前に少しだけ息を整える癖も。


「お忙しいですか」


「いや」


夫は手元の書類を閉じた。


「どうした」


結はすぐには座らなかった。

扉のそばで少しだけためらい、それから意を決したように中へ入ってくる。


「少し、お話がしたくて」


夫は向かいの椅子を目で示した。


「座れ」


結は頷いて腰を下ろした。

だが、その手は膝の上で静かに重なったまま、どこか緊張している。


夫はその様子を見て、話題の見当はついていた。

前の休日の夜、結は自分が恋をしていると打ち明けた。

おそらく、その続きなのだろう。


やがて結は口を開いた。


「このあいだ、お話ししたことですが……」


「ああ」


「私は、やはりあの人が好きです」


あの人。

庭師の息子のことだと、言い換える必要もなかった。


夫は静かに結を見た。

結の表情は真剣で、逃げるような色はなかった。

それだけで、この思いが気まぐれではないことがわかる。


結は少し間を置き、それから続けた。


「でも……」


視線がわずかに揺れる。


「家柄が違います」


その言葉に、夫の胸の内で何かが静かに動いた。


結はまっすぐに父を見る。


「お父様は、反対なさいませんか」


夫はしばらく答えなかった。


家柄。


その言葉は、自分の過去をすぐに呼び起こす。

貧しい家に生まれたこと。

見下される側だったこと。

そしてその反動のように、力と金を掴み、誰にも侮られぬ場所まで上がってきたこと。


もし昔の自分なら、この問いにどう答えただろう。

あるいは、答える前に感情で押し切っていたかもしれない。


だが今は違う。


夫はゆっくりと言った。


「反対はしない」


結が目を見開く。


夫は落ち着いた声で続けた。


「俺自身、貧しい家で生まれ育った」


結は黙って聞いている。

これまで詳しく話したわけではない。

妻には話しても、結に細かく語ったことは多くなかった。

だからこそ、今の言葉は娘にとっても重みがあるのだろう。


「家柄で人を決めるつもりはない」


夫は指先で机を軽く叩き、それから視線を自分の左手へ落とした。

薬指には、今もあの結婚指輪がある。


「それに……お前の母親は、もともと俺の使用人だった」


結の目が、かすかにやわらぐ。


その話は知っている。

だがこうして父の口から、改めて静かに語られるのはまた別の響きがあった。


「俺はあいつの家柄を気にしたことはない」


言いながら、胸の奥には少し苦いものが残る。

気にしなかったのは本当だ。

だがその代わりに、愛し方をひどく間違えた。

家柄ではなく、もっと別のところで妻を傷つけたことを思えば、簡単に胸を張れる話でもない。


それでも、今ここで娘に伝えるべきことははっきりしていた。


「母親も、おそらく反対しない」


夫は静かに言った。


「むしろ、お前の気持ちを尊重するだろう」


結の目に、少しだけ安堵の色が差す。


「……そう、思いますか」


「ああ」


妻ならきっとそうする。

相手の身分や家柄よりも、その人がどんな心を持っているかを見たはずだ。

自分がそうであったように。


しばらく沈黙が落ちる。


その静かな時間のあと、結は少しためらうように、けれどはっきりと言った。


「私、お父様とお母様のような関係になりたいんです」


夫の目がわずかに動く。


結は続けた。


「ずっと思っていました」

「お母様は、お父様のことを本当に大切にしていて……お父様も、お母様をずっと愛していて」

「そういうふうになれたらって」


その言葉に、夫はすぐには返せなかった。


妻と自分のような関係。


今の結から見れば、そう見えるのだろう。

たしかに晩年の二人には穏やかな時間があった。

互いに微笑み、言葉を交わし、同じ指輪をつけていた。

だがその手前に何があったかを知るのは、夫だけだ。


地下室。

壊れた心。

泣かせた夜。

取り戻すまでの長い痛み。


夫は小さく息をついた。


「……あいつを幸せにしてやれたのかは、俺にはわからない」


結が少し驚いたように父を見る。


夫は正直に続けた。


「幸せだった時もあったと思いたい。そう願っている」

「だが、傷つけたことの方が先に思い出される」


それが夫の偽らぬ本心だった。

妻を心から愛していた。

今もなお愛している。

だが、それと同じだけ、傷つけた過去も抱えている。


結は黙ってその言葉を受け止めていた。


その視線がふと、父の左手へ落ちる。

薬指の結婚指輪。

夫は今もそれを外していない。


そして次に、視線は書斎の窓際へ向かった。


そこには、小さなクマのぬいぐるみが置かれている。


昔、妻が街で見つけて欲しいと言った、あのぬいぐるみ。

妻が亡くなったあとも、夫はそれを処分できなかった。

書斎の窓際に置き、ときどき無意識に目で追ってしまう。

それがどれほど自分にとって大切なものか、結もずっと知っていたのだろう。


結はその二つを見て、静かに言った。


「……お父様は、今でもお母様を愛しているんですね」


夫は返事をしなかった。

だが否定するつもりもなかった。


少しして、低く答える。


「ああ」


それだけだった。

けれどその短いひと言の中に、十五年という歳月がそのまま沈んでいた。


結は父の手の指輪と、窓際のクマのぬいぐるみとを、もう一度見た。

そして、やわらかく微笑んだ。


「……わかる気がします」


夫は娘を見る。


結は続けた。


「お父様がお母様を、今でもずっと大事に思っていること」


その言葉に、夫の胸の奥が静かに痛んだ。

痛みであり、同時にあたたかさでもあった。


忘れていない。

忘れられない。

そして、結にもそれが伝わっている。


夫はゆっくりと頷いた。


「そうだな」


結もまた、小さく頷く。

それから少しだけ表情を引き締めて言った。


「私も、軽い気持ちではありません」


夫はその言葉を聞いて、娘がもう子どもではないことを改めて思い知る。


「そうか」


また短い返事だった。

けれど今度の「そうか」には、前の夜とは違う響きがあった。

戸惑いだけではなく、受け止めようとする意思があった。


結は立ち上がり、一礼した。


「お話しできて、よかったです」


夫も小さく頷く。


「……また何かあれば話せ」


結の顔が少しやわらぐ。


「はい」


結が去ったあと、書斎には静けさが戻った。


夫はしばらく動かず、左手の指輪を見つめた。

それから窓際のクマのぬいぐるみへ目をやる。


妻はもういない。

けれど、その面影は今もこの部屋にあり、指輪にも、娘の笑みにも残っている。


結は、妻と自分のような関係になりたいと言った。

それを聞いたときの胸の痛みは、まだ残っていた。

だが同時に、この子が誰かを大切に思い、その思いをきちんと口にできるように育ったのなら、それはきっと妻が遺してくれたものなのだろうとも思う。


夫は小さく息をつき、低く呟いた。


「……あいつなら、何と言うだろうな」


返事はない。

だが、きっと微笑みながら「結の気持ちを大事になさってくださいませ」と言うのだろうと、夫には想像がついた。


その想像に、ほんの少しだけ口元がやわらいだ。

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