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似た微笑み

春の午後だった。


庭にはやわらかな陽が落ち、風はまだ少し冷たいものの、もう冬の鋭さはなかった。

花壇には新しい花が増え、木々の枝先にも若い葉が覗いている。


夫はひとり、庭を歩いていた。


仕事の合間に少し外の空気を吸おうと思っただけだった。

だが小道を曲がった先で、思わず足を止める。


前方に、結がいた。


十八になった娘は、春の光の中でよく目立った。

その隣には、ひとりの若い青年が並んで歩いている。


結より少し年上。

庭師の息子だった。

幼い頃からこの屋敷に出入りしており、夫も顔を知っている。

今は父親とともに庭の手入れを任されるようになっていた。


二人は、花壇の縁をゆっくり歩いていた。


距離は近すぎず、慎ましい。

だが、ただ用件を伝えているだけではないとわかる空気があった。

青年が何かを言い、結がそれに顔を上げて応じる。


そして、そのときだった。


結がふっと微笑んだ。


夫の胸がわずかに強張る。


その笑みが、あまりにも妻に似ていた。


大きく笑うのではない。

どこか控えめで、やわらかく、相手にだけそっと向けるような微笑み。

昔、妻が時折見せていた自然な笑みにそっくりだった。


その瞬間、夫の胸の奥で古い記憶が揺れる。


まだ若く、愛し方を知らず、独占欲だけを愛と取り違えていた頃。

妻が男の使用人に自然に微笑んだ、それだけで胸の内を焼かれるように嫉妬したことがあった。

その嫉妬を抑えきれず、結局、自分は妻を傷つけた。


地下室。

壊れた心。

「一人は寂しい」と呟いた雪の日。

そうした過去が、一瞬で胸に戻ってくる。


もちろん、今はあの頃とは違う。


目の前にいるのは妻ではなく娘だ。

相手の青年も、よく知る、真面目な若者だ。

あの頃のような、暗く激しい嫉妬や、閉じ込めたいほどの独占欲ではない。


けれど、気になる。


結のその微笑みが。

誰かに向けられた、そのやわらかな顔が。


夫はしばらく立ち尽くした。


先に青年が夫の存在に気づき、はっとして頭を下げる。


「旦那様」


結も振り返った。

一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから静かに会釈する。


「お父様」


夫は二人の前まで歩み寄った。


「何をしていた」


問いは短かった。

声音に強い詰問の色はない。

だが結は少しだけ背筋を伸ばし、青年もきちんと姿勢を正す。


青年が先に答えた。


「春の花壇の植え替えについて、お嬢様にご説明しておりました」


結も小さく頷く。


「この花が、もう少ししたら咲くそうです」


夫は花壇へ目を向ける。

整えられた土の中に、小さな芽が並んでいた。


「そうか」


それだけ言う。


青年はそれ以上踏み込まず、丁寧に一礼した。


「では、私はこれで失礼いたします」


夫は無言で頷いた。


青年が去っていく。

結はその背を少しだけ目で追ってから、夫の方を見た。


「お父様?」


「何だ」


「……何か、ございましたか」


さすがに娘は敏い。

夫の胸中にあった小さな揺れを、言葉にせずとも感じ取ったのだろう。


だが夫は首を振った。


「いや」


それ以上は言わない。

結もまた、無理に重ねてはこなかった。


その夜のことだった。


結はいつものように、寝る前の挨拶のために夫の部屋を訪れた。


幼い頃から続く習慣だった。

妻が亡くなったあとも、結はそれだけはやめなかった。

おやすみなさいませ、と顔を見せるそのひとときが、父娘の静かな約束のようになっていた。


書斎の扉が控えめに叩かれる。


「お父様」


「入れ」


結が入ってくる。

寝間着の上に薄い羽織を重ね、髪はゆるく下ろされている。

そんな姿もまた、妻によく似ていた。


「おやすみなさいませ」


夫は書類から目を上げた。


「ああ。おやすみ」


結が一礼して下がろうとする。

だが、その背を見た瞬間、夫は今日の昼間のことを思い出し、思わず呼び止めていた。


「結」


結が振り返る。


「はい?」


夫は少しだけ間を置いた。

何をどう尋ねるべきか、自分でも少し迷う。


それでも、結局はまっすぐ聞くしかなかった。


「昼間、庭で話していた青年だが」


結の表情がわずかに揺れる。


「……庭師の息子のことですか」


「ああ」


夫は椅子に深くもたれず、娘を見て続ける。


「よく話すのか」


結はすぐには答えなかった。


視線が少し落ちる。

迷っているのがわかる。

隠すべきか、正直に言うべきか、その境目で小さく立ち止まっているようだった。


夫は急かさない。

ただ待つ。


やがて、結は静かに息をついた。


「……時々、お話しします」


「そうか」


短い返事のあと、また沈黙が落ちる。


結は自分の指先を見るようにして、少しの間黙っていた。

そして意を決したように顔を上げる。


「お父様」


「何だ」


「私……」


言葉がそこで詰まる。

けれど、逃げるようには目を逸らさなかった。


「……恋を、しています」


夫は何も言えなかった。


胸の奥に、説明しにくい感情が広がる。


驚き。

寂しさ。

そして、かすかな苦味。


娘が恋をすることは、何も不自然ではない。

十八歳の娘が、誰かを見て微笑み、心を寄せる。

むしろ自然なことだ。


咎めるつもりもない。

それは本心だった。


けれど、いざその口から聞くと、胸中はそう簡単ではなかった。


結の微笑みが妻に似ていたこと。

かつて妻が男に向けた笑みに嫉妬し、結局、壊してしまった過去があること。

そうした記憶が一緒になって、夫の胸を複雑に重くする。


しばらくして、夫はようやく口を開いた。


「……そうか」


それだけだった。


結はわずかに目を見開く。

もっと何か言われると思っていたのかもしれない。

咎められるか、問いただされるか、少なくとも詳しく聞かれるか。


だが夫は、それ以上何も言わなかった。


結は少しだけ戸惑った顔のまま、それでも小さく頷いた。


「はい」


夫はその返事を受け、静かに息をつく。


胸の内は穏やかではない。

だが、その複雑さを娘へぶつけるべきではないこともよくわかっていた。


あの頃の自分とは、もう違う。

そう思って生きてきた。

だから今は、結の気持ちを閉じ込めるのではなく、ただ受け止めるしかない。


「もう遅い」


夫は低く言った。


「休め」


結はまだ少しだけ何か言いたげだったが、結局それ以上は口にせず、一礼した。


「……おやすみなさいませ、お父様」


「ああ」


扉が閉まる。


ひとり残された書斎で、夫はしばらく動かなかった。


そうか、としか言えなかった。

それ以上の言葉が見つからなかった。


恋をした娘。

その相手に向ける微笑み。

妻に似たその顔。

昔の自分がした過ち。

そして、今の自分の戸惑い。


どれも一度に胸へ押し寄せ、簡単には整理できなかった。


夫は静かに目を閉じる。


娘の恋を咎めるつもりはない。

本当に、それはない。


それでも、胸の奥には小さなざわめきが残る。

父親としての複雑さなのか。

過去を思い出す痛みなのか。

あるいは、今もなお妻を忘れられぬ自分の寂しさなのか。


そのどれもが混ざり合っていた。


しばらくして、夫は低く独り言のように呟く。


「……恋、か」


その声には、言いようのない複雑さが滲んでいた。

だが少なくとも、昔のようにそれを怒りや支配に変えることは、もうなかった。


そうか、とだけ言って受け止めたこと。

それが今の自分にできる精一杯なのだと、夫は静かに思っていた。

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