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忘れられない人

十五年が過ぎた。


庭の木々は、今年も静かに季節を巡らせている。

春には花が咲き、夏には濃い緑を落とし、秋には色づき、冬には枝だけになる。

その変わらぬ繰り返しの中で、屋敷だけが少しずつ古び、住む者たちもまた歳を重ねた。


結は十八歳になっていた。


もう子どもではない。

背丈も伸び、声も落ち着き、所作にも品がある。

けれどふとしたときの目元や、何かを見つめて小さく笑うときの口元は、あまりにも妻に似ていた。


似ている、と最初に思ったのは、結がまだ幼い頃だった。

けれど十八になった今は、ただ似ているでは済まないときがある。

廊下の向こうから歩いてくる姿に、一瞬だけ息が止まることがある。

振り返った横顔に、胸を衝かれることがある。


妻はもう、この世にいない。


結が四歳のときだった。


病だった。


最初は、よくある体調不良のように思えた。

少し熱がある。

少し咳が続く。

疲れやすい。

そういう小さな兆しから始まった。


医師を呼び、薬を整え、休ませればよくなると思っていた。

いや、そう思いたかったのだ。


だが、よくならなかった。


日ごとに痩せ、熱は繰り返し、息は浅くなり、起き上がることさえつらそうになっていく。

以前、地下室で倒れたときとは違う。

今度はどれだけそばにいても、どれだけ手を尽くしても、戻してやることができない種類の衰弱だった。


夫はその現実を、最後まで認めたくなかった。


屋敷の中では、冷静でいた。

医師の説明を聞き、薬を変え、使用人へ的確に指示を出し、結の前でも声を乱さなかった。


「おかあさまは、つかれているの?」


まだ四歳の結が、不安そうにそう尋ねてきたときも、夫は静かに答えた。


「ああ。だから静かにしていような」


「わかった」


その小さな返事に頷き返しながら、胸の内では何かが崩れ続けていた。


使用人たちの前でもそうだった。

相馬が深い皺をいっそう刻みながら「旦那様……」と声をかけても、夫は短く首を振るだけだった。


「医師を呼べ」

「薬を切らすな」

「結はあまり部屋へ入れるな。無理に見せるな」


声は落ち着いていた。

指示は的確だった。

誰の目にも、若き主人は冷静に妻の病に向き合っているように見えただろう。


けれど、それはただの体裁だった。


ひとりになると、夫は泣いた。


激しく、みっともなく、息が詰まるほど泣いた。


書斎に閉じこもっても。

誰もいない廊下の曲がり角でも。

夜中、妻の寝息が苦しげに乱れるのを聞いたあとでも。


声を殺しても、涙は止まらなかった。

両手で顔を覆い、歯を食いしばり、それでも嗚咽が漏れた。


失いたくなかった。


あれほど手遅れになるまで妻を傷つけ、それでもようやく取り戻した穏やかな時間だった。

共に食卓につき、同じベッドに眠り、指輪をはめ、娘が生まれ、笑い合うようになっていた。

これから先も、ずっと続くのだと信じたかった。


なのに、奪われる。


幼い頃から、欲しいものはいつも奪われる側だった。

愛情も、家庭も、自分には縁のないものだと思っていた。

それでも、ようやく手にした妻との人生だけは、守れるとどこかで思っていた。


だが守れなかった。


その絶望は、言葉にならなかった。


妻が亡くなった日のことを、夫は今でも鮮明に覚えている。


息は浅く、小さくなっていた。

窓の外には、淡い季節の光があった。

結はメイドに預けられていて、その場にはいなかった。


妻は最後まで穏やかだった。


弱った手で夫の指に触れ、かすれた声で言った。


「……結を、お願いします」


夫は首を振った。


「そんなことを言うな」


妻はわずかに微笑んだ。

昔の、あのやわらかな笑みだった。


「旦那様」


その呼びかけがあまりにも静かで、夫はたまらず妻の手を額へ押し当てた。


「行くな」


初めてだったかもしれない。

こんなにも子どものような声で、まっすぐに縋るように言ったのは。


「頼むから……置いていくな」


妻は何も答えなかった。

ただ目にやわらかな光を残したまま、静かに息を手放した。


その瞬間、世界から音が消えたように思えた。


けれど夫は泣かなかった。

その場では。


医師が頭を下げ、使用人たちが泣き、相馬が深く目を伏せても、夫はただ妻の手を握っていた。

冷たくなっていく指先を離せず、無言で、まるでまだ体温が戻るのを待っているように。


その夜、ようやくひとりになった書斎で、夫は崩れた。


泣くというより、壊れた。

机に手をつき、立っていられず、床に膝をついた。

これまで抑えてきたものが一気にあふれ、呼吸もろくにできないほどだった。


「……どうしてだ」


誰に向けているのかもわからない問いを、何度も吐いた。


「どうして」

「どうして、あいつなんだ」

「ようやく……ようやくだったのに」


嗚咽の合間にそんな言葉が零れた。

誰にも聞かせられない、あまりにも情けない声だった。


その後も、結の前では泣かなかった。


四歳の子どもに、母の死の意味をどこまでわからせてよいのか、夫には判断がつかなかった。

ただ、抱きしめ、そばに置き、「母親は眠っている」と言いかけて、結局そんな嘘はつけず、言葉を飲み込んだ。


結が六歳になったころだった。


ある春の午後、庭で花を見ていた結が、ふいに夫へ尋ねた。


「おとうさま」


「ああ」


「どうしておかあさまはいないの」


夫の足が止まる。


結はただ、まっすぐに見上げていた。

責めるでもなく、悲しむでもなく、子どもらしい無邪気さのままで。


夫はすぐには答えられなかった。


「……遠くへ行った」


かろうじてそう言うと、結は首を傾げる。


「もう、かえってこないの?」


「帰ってこない」


その答えに、結は少し黙った。

それから、もっと小さな声で続けた。


「おかあさまは、私のこと好きだった?」


そのひと言が、夫の胸を深く裂いた。


それまでの自分は、父として必死だったのだと思う。

結を育てなければならない。

泣かせすぎてはいけない。

母を失った幼い娘を守らなければならない。

その役目の中に、自分を押し込めていた。


けれどその問いを聞いた瞬間、初めて、父としてではなく、妻を失った夫としての痛みが正面から戻ってきた。


好きだったに決まっている。


命より大事にしていた。

雪の日も、星の夜も、旧家も、指輪も、全部その愛の中にあった。

そしてその愛の延長に、お前がいたのだと、すぐに言いたかった。


だが口を開くと、声が震えそうだった。


夫は娘の前で泣くまいとして、ゆっくりと膝を折った。

結と目の高さを合わせ、できるだけ穏やかに言った。


「好きだった」


結は瞬きをする。


夫は続けた。


「お前が生まれたとき、とても喜んだ」

「お前のことを、誰より大事にしていた」


結はそれを聞いて、少し考えるような顔をした。

そしてほっとしたように笑った。


「そっか」


その無邪気な笑みに、夫は逆に泣きそうになった。


妻はもういない。

だが、結の中にはいる。

笑った顔にも、花を見て足を止める癖にも、素直にまっすぐ問いかける目にも。


そう思うことでしか、夫は生き延びられなかった。


十五年経った今も、妻を忘れたことは一度もない。


忘れるということがどういうことか、もうよくわからない。

日常は流れる。

仕事もある。

結は大きくなる。

屋敷も変わる。

けれど、ふとした瞬間に寂しさは訪れる。


春の花を見たとき。

雪が積もった朝。

冬の夜に星がよく見えるとき。

結が妻そっくりの顔で笑ったとき。


そのたびに、胸の奥に静かな空洞が開く。


会いたいと思う。


いまだに。

十五年経っても。


書斎でひとり、古い指輪の光を見つめる夜もある。

旧家へ一人で足を運び、あの玄関に立ち尽くすこともある。

暖炉の火を見ながら、「懐かしいな」と口にしてみても、もう妻はそこへ抱きついてはこない。


それでも、愛している気持ちは変わらない。


ある夕暮れ、十八になった結が庭で花を見つめていた。

横顔が、妻によく似ていた。


夫はしばらくその姿を見てから、静かに声をかける。


「結」


結が振り返る。


「はい、お父様」


その声は娘のものだ。

けれど、ときどき妻の面影が重なる。


夫はほんの少し微笑んだ。


「綺麗だな」


結も花を見て、小さく笑う。


「はい」


その返事を聞きながら、夫は胸の内で思う。


忘れられない。

忘れるつもりもない。


寂しさは消えない。

ときおり、ひどく深く襲ってくる。

それでも、その寂しさごと抱えて生きていくしかないのだろう。


妻を愛したまま。

失ったまま。

それでも、娘の成長を見届けながら。


十五年経ってもなお、夫の中で妻は、今も確かに生きていた。

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