愛し方のかたち
春も深まりかけた午後、夫は娘の結と庭を歩いていた。
空はよく晴れ、やわらかな陽が庭の石畳や花々の上に落ちている。
妻は今日は少し疲れがあるらしく、部屋で休んでいた。
そのため結が「おとうさまとおにわいく」と言い出したとき、夫が一人で連れ出すことになったのだった。
結は三歳らしく、歩きながら次々に気になるものを見つける。
「あ、おはな」
「あっちにもある」
「ちょうちょは?」
夫はそのたびに短く返す。
「花だな」
「ああ」
「今日はまだいない」
言葉は少ない。
けれど結はそれで十分らしく、夫の手を握ったり離したりしながら、楽しそうに歩いていた。
「おとうさま、みて」
花壇の縁の方へ駆けていこうとして、結の足が石の継ぎ目に引っかかった。
「あっ」
小さな身体が前へ傾く。
夫は反射的に走った。
考えるより先に身体が動いていた。
数歩で追いつき、地面に膝をつくより早く娘の腕を支え、そのまま抱き起こす。
「結」
低い声が鋭くなる。
それでも怒っているのではなく、驚きと焦りがそのまま滲んでいた。
結は目を丸くしたあと、少しだけ唇を尖らせた。
膝は軽く擦っただけで、大きな怪我にはなっていない。
「いたい……ちょっとだけ」
夫はしゃがんだまま娘の膝を見る。
土がついている。血はほとんど出ていない。
「見せろ」
ハンカチでそっと汚れを拭う手つきは、思っている以上に慎重だった。
結はその顔をじっと見下ろしている。
「……もう走るな」
「うん」
返事は素直だった。
けれど次の瞬間、結はふと笑った。
「おとうさま、やさしいね」
夫の手が止まる。
「……何だと」
結はうれしそうに繰り返す。
「おとうさま、すぐきてくれた」
「だっこもしてくれた」
「やさしい」
夫は娘の顔を見た。
そこには何の含みもない、ただまっすぐな笑顔だけがあった。
優しい。
その言葉が胸の奥に落ちた瞬間、過去がよみがえった。
地下室。
冷たい石の床。
粗末な服を着せ、七日も閉じ込めた妻。
自分の嫉妬と独占欲だけで、妻の心を壊しかけたあの日々。
「一人は怖い」とうわ言のように零した声。
無表情で、何も返さなくなった顔。
あの頃の自分に、優しいなどという言葉はありえなかった。
いや、今の自分にそれを向けられる資格があるのかすら、わからない。
娘を抱き上げながら、夫は胸の内で問いかける。
変われたのだろうか。
ただ妻を失いかけて怯えただけではないのか。
独占欲を、少し見栄えのよい形に変えただけではないのか。
本当に、自分はあの頃とは違うのか。
結はそんな父の胸の内など知るはずもなく、抱き上げられたまま楽しそうに笑った。
「おとうさま、へんなかお」
夫はわずかに眉を動かす。
「変な顔ではない」
「してるもん」
「していない」
結はけらけら笑う。
その無邪気さに、夫の中の張りつめたものが少しだけほどける。
「もう歩けるか」
「あるける」
「なら、ゆっくり行くぞ」
「はあい」
夫は娘を下ろし、今度はしっかり手を握って歩き出した。
結もその手を握り返し、今度は走らず、花壇をひとつずつ眺めながら進んでいく。
その小さな手の温度を感じながらも、夫の胸には先ほどの言葉が残っていた。
優しい。
夜。
娘を寝かしつけ、屋敷が静かになるころ、夫婦の寝室にはやわらかな灯りだけが残っていた。
妻は寝台にもたれ、夫の話を聞けるよう、穏やかな顔で待っていた。
この頃の妻は、もう以前のように完全に閉ざされてはいない。
言葉も戻り、表情も自然になった。
それでも、夫は大事なことほど妻に聞いてほしいと思うようになっていた。
夫は上着を脱ぎ、寝台の端へ腰を下ろす。
妻が静かに尋ねる。
「今日は、結とお庭に?」
「ああ」
「どうでしたか」
夫は少し黙ってから答えた。
「転んだ」
妻の目がすぐに心配そうに揺れる。
「え……」
「大したことはない。膝を少し擦っただけだ」
それを聞いて、妻はほっと息をついた。
「そうですか……よかった」
夫はその横顔を見ながら、昼間のことを思い返す。
「そのあと、結に言われた」
「何を、ですか」
夫はわずかに目を伏せる。
「優しい、と」
妻は静かに夫を見つめた。
促すような沈黙だった。
夫は低く続ける。
「すぐ駆け寄って、抱き上げて、だから優しいと」
小さく息をつく。
「だが……そう言われて、考えた」
妻は黙って聞いている。
「俺は本当に変われたのか、と」
その問いに、部屋の空気が少しだけ静まる。
夫ははっきり言葉にした。
「地下室へ入れた時のことを、今でも思い出す」
「お前を閉じ込めた」
「心を壊した」
「俺にあったのは……あの頃は、独占欲だけだったように思う」
妻の指先が、掛け布の上でわずかに動いた。
けれど口は挟まず、最後まで聞こうとしている。
夫は苦く笑うように言う。
「今、結に優しいと言われても、あの頃の自分を思えば、そんなふうに言われる資格があるのかと思う」
妻はしばらく黙っていた。
すぐに答えを返すのではなく、ちゃんと言葉を探しているのがわかる。
それが今の妻らしかった。
やがて、静かに口を開く。
「……旦那様」
「何だ」
「愛してくださる気持ちは、あの頃も、今も……変わっていないのだと、思います」
夫は妻を見る。
妻はまっすぐに夫を見ていた。
その目にはもう、昔の怯えはない。
「でも」
妻はやわらかく続ける。
「愛し方は……変わりました」
夫は何も言えなかった。
妻は少しだけ言葉を整えるように間を置き、それからゆっくりと重ねる。
「あの頃の旦那様は、失いたくない気持ちが強すぎて……閉じ込めてしまわれたのだと思います」
「今は、そばに置くだけではなくて……私がどうしたいかを、ちゃんと見てくださる」
夫の胸の奥が静かに熱を持つ。
妻は微笑んだ。
「それは、とても違うことです」
その言葉に、夫はようやく息をついた。
完全に過去が消えるわけではない。
あの地下室も、壊れた日々も、なくなりはしない。
けれど、そのあとを生きることはできるのだと、妻は言っているのだ。
夫は小さく、しかし自然に微笑んだ。
「……そうか」
妻もまた、穏やかに笑う。
「はい」
夫はそのまま、妻の手を取った。
結婚指輪が灯りの下で控えめに光る。
「お前には、何度言っても足りないな」
妻が少しだけ首をかしげる。
「何が、ですか」
夫はその手をそっと引き寄せ、低く言った。
「愛している」
飾りのない、静かな声だった。
けれどそれは今の夫にとって、最も大切な本音だった。
妻の目元がやわらかくなる。
それから少し照れたように、けれど嬉しそうに微笑んだ。
「……私も、愛しています」
その返事に、夫の胸の中の長い痛みが、少しずつ穏やかなものへ変わっていく気がした。
変わったのだろうか、と問う夜は、きっとこれからもある。
だが少なくとも今は、妻がそれを見ていてくれる。
そして違いを、ちゃんと言葉にしてくれる。
寝室の灯りは静かで、外の夜も穏やかだった。
夫は妻の手を包んだまま、もう一度だけ思う。
独占するためではなく、寄り添うために。
閉じ込めるためではなく、共に歩くために。
ようやく、自分は愛し方を覚え始めたのかもしれないと。




