結ぶ手
四年が過ぎた。
屋敷の空気は、かつてとはもうずいぶん違っていた。
広い廊下にも、大広間にも、以前のような張りつめた冷たさはない。
静けさは変わらずある。けれどそれは怯えから生まれるものではなく、整えられた家の穏やかさに近かった。
夫は今も、外では冷静だった。
仕事の場では言葉少なで、判断は鋭く、無駄を嫌う。
使用人たちもその点では以前と変わらぬ緊張を持って接している。
けれど家の中では、もう違う顔を見せることがあった。
特に、娘の前では。
娘の名は、結。
三歳になったばかりの小さな女の子だった。
黒い髪も、やわらかい目元も、どこか妻に似ている。
笑うと頬のあたりまで妻にそっくりで、夫は最初の頃、それだけで言葉を失いかけたことが何度もあった。
その朝、夫は書斎でひと仕事を終えたところだった。
机の上の書類に目を通し、最後の署名を済ませ、ペンを置く。
窓の外には、やわらかな春の光が広がっている。
すると廊下の向こうから、小さな足音が駆けてきた。
「おとうさま!」
勢いよく開いた扉の向こうに、結が立っていた。
その後ろには、少し息を切らしたメイドが控えている。
「お嬢様、走ってはいけませんと……」
だが結はそんな注意など気にしていない。
小さな両手を広げたまま、まっすぐ夫へ向かってくる。
夫は反射的に立ち上がった。
冷静な顔のまま、けれど動きだけは驚くほど早い。
転ばぬよう、ぶつからぬよう、すぐにしゃがんで娘を受け止める。
「走るな」
低い声でそう言いながらも、腕の中に収まった娘を抱き上げる手つきはやさしかった。
結は夫の首へ腕を回し、得意げに言う。
「ころんでないもん」
「転んでからでは遅い」
「でも、おとうさまに、はやくあいたかったの」
そのひと言に、夫の表情がごくわずかにやわらぐ。
後ろから現れた妻が、その様子を見て穏やかに微笑んだ。
「結、お父様はお仕事中でしたでしょう」
結は夫に抱かれたまま、妻の方を向く。
「おしごとおわったって、そうまさんがいってた」
その名が出たところで、廊下の少し後ろに控えていた相馬が、気まずそうにひとつ咳払いをした。
「……お嬢様に問われましたので」
夫は娘を抱いたまま、相馬へ一瞥を向ける。
それは叱責の目ではなかった。
むしろ、結に甘いのは相馬も同じだと知っている目だった。
「そうか」
短くそう返すと、結が夫の頬へ手を当てる。
「おとうさま、きょう、おにわいく?」
夫は娘を見た。
「庭か」
「うん。おはな、いっぱいみるの」
妻が静かに口を添える。
「今朝からずっと、そればかり申しておりまして」
結はこくこくと頷く。
「おかあさまと、おとうさまと、ゆいでいくの」
夫は腕の中の娘を見つめ、それから妻の方を見た。
妻は以前よりずっと自然に笑うようになっている。
言葉も、表情も、穏やかに戻っていた。
そして何より、この子が生まれてからの妻は、以前の静かなやわらかさに加えて、確かな強さを持つようになっていた。
夫は結を抱き直し、低く言う。
「少し待て。すぐに行く」
「ほんと?」
「本当だ」
すると結はぱっと顔を輝かせ、夫の頬へ勢いよく口づけをした。
「やった!」
その無邪気さに、夫はさすがに言葉を失いかける。
妻が思わず笑い、相馬も目を伏せたまま口元をわずかにゆるめた。
夫は結を見ながら、なるべく平然とした声で言う。
「……結」
「なあに?」
「そういうことは、急にするな」
「なんで?」
「……驚く」
結はきょとんとしたあと、けらけら笑った。
「おとうさま、びっくりしたの?」
夫は答えない。
だがそのわずかな間が、図星だと示していた。
妻はその様子を見て、やわらかな声で言う。
「旦那様、結がますます調子に乗りますよ」
夫はようやく結を床へ下ろす。
「行く支度をしろ」
「はあい!」
結は元気よく返事をすると、今度は走らずに妻の手を取りに行った。
そのことに、夫は内心少し安堵する。
しばらくして、三人で庭へ出た。
春の庭は、四年前とはまるで違って見える。
いや、同じ庭でも、見ているこちらが違うのだと夫は思った。
結は妻に似て、花を見るのが好きだった。
小さな手で花弁を指し、「これ、なあに」と何度も尋ねる。
妻はしゃがんでそのたびに答える。
「これはチューリップです」
「こっちは?」
「スイセンですよ」
「すいせん!」
結は覚えたばかりの言葉を得意げに繰り返す。
その横で夫は静かに見守っていた。
「おとうさま」
今度は結が夫を振り返る。
「これ、きれい」
小さな花を指差してそう言う。
夫はその花を見る。
それから娘の顔を見る。
妻によく似た目が、まっすぐこちらを見ていた。
「……ああ」
夫は静かに答える。
「綺麗だな」
その言葉に、妻がふと夫を見る。
昔、星空の下で、冬の花の前で、自分に向けられていた声音とよく似ていることに気づいたのだろう。
妻の目元がやわらかくなる。
結はそんなことには気づかず、今度は夫へ向かって両手を伸ばした。
「だっこ」
夫は一瞬だけ眉を動かす。
だがすぐに、無言で娘を抱き上げた。
結は満足そうに夫の肩へ頭を預ける。
「おとうさま、おはな、ちかいね」
「そうだな」
「いいにおい」
「そうか」
言葉は短い。
相変わらず多くは語らない。
けれどその抱き方には、隠しようもなく甘さがあった。
妻はその様子を見て、夫の隣に並ぶ。
「旦那様、結を甘やかしすぎです」
「そうか」
「そうです」
妻が笑うと、夫もほんの少しだけ口元をゆるめた。
結は二人の顔を見比べて、不思議そうに尋ねる。
「おかあさま、なんでわらってるの?」
妻は夫を見て、それから結へ微笑む。
「お父様が、結にとても甘いからですよ」
「おとうさま、あまいの?」
夫は娘を抱いたまま、低く言う。
「余計なことを教えるな」
「ふふ」
妻はまた笑う。
その笑い声を聞きながら、夫は胸の奥で静かに思う。
貧しい家で育ち、愛情を知らず、家庭など持つつもりもなかった。
その自分が今、娘を抱いて庭に立っている。
妻が隣で笑っている。
そのことが、いまだにときどき信じられない。
結は夫の肩に頬を寄せたまま、眠たそうに目を細める。
「おとうさま」
「何だ」
「だいすき」
夫は数秒、答えられなかった。
それからようやく、抱く腕を少しだけ強める。
「……ああ」
それだけでは足りないと、妻の視線が告げている。
夫は小さく息をつき、娘の髪に口づけてから、静かに言い直した。
「俺もだ」
結はそれで十分満足したらしく、くすぐったそうに笑った。
妻はそのやり取りを見て、穏やかに微笑んでいる。
春の光の中で、三人の影が庭に並ぶ。
夫は今も冷静だ。
外では変わらず鋭く、無駄を嫌い、簡単には感情を見せない。
だが、この庭で娘を抱く姿には、もう昔の冷たさだけでは説明できないぬくもりがあった。
そのぬくもりを知ったのは、妻がいたからだ。
そして今、そのぬくもりの中に結がいる。
夫は娘を抱いたまま、隣の妻へ静かに目を向けた。
妻もまた、その視線を受けてやわらかく笑う。
四年の歳月を経て、ようやくこの家には、本当の意味で春が来ていた。




