春の兆し
それから数週間、屋敷には穏やかな日が続いていた。
劇的にすべてが元通りになったわけではない。
けれど妻は、以前とは見違えるほど落ち着いていた。
言葉は少しずつ増え、短い会話なら自然に続くようになった。
時折、言葉に詰まることはある。
それでも、自分の気持ちを口にすることをもう怖がらない。
表情も豊かになり、ふとした瞬間の微笑みには、昔のやわらかさが戻りつつあった。
夫はそんな変化を、毎日胸の奥で噛みしめるように見ていた。
朝、共に食卓につく。
仕事の合間に顔を見に行く。
夜は同じ寝台で眠る。
どれも当たり前のことのようでいて、少し前までの二人には考えられなかった時間だった。
そんなある日の午前だった。
妻は居間の窓辺に立っていたが、不意に手を椅子の背へついた。
わずかに顔色が変わる。
夫はすぐに気づいた。
「どうした」
妻は唇を押さえ、少し呼吸を整えてから答える。
「……少し、気持ちが悪くて」
その声は弱かった。
さらに、立ち上がろうとしたときにも、ふらつくような気配があった。
夫の胸がすぐに冷たくなる。
以前のことがある。
地下室で熱を出し、倒れかけていたのに、自分に迷惑をかけたくないと隠そうとしていた妻の姿が、瞬時によみがえった。
夫はためらわなかった。
近くに控えていたメイドへ鋭く命じる。
「すぐに病院の手配をしろ」
メイドがはっと顔を上げる。
「かしこまりました」
「一番早く診てもらえるところを押さえろ。車もすぐ用意させろ」
「はい」
夫は妻のそばへ膝をつき、その顔をのぞき込む。
「ほかには」
妻は少し困ったように、けれど今は隠そうとしなかった。
「……立ちくらみも、少し」
そのひと言で、夫の不安はさらに増した。
「すぐ行く」
妻が何か言おうとしたが、夫は低く、しかし強く続けた。
「俺も行く」
妻は目を瞬かせた。
以前なら、夫は仕事を優先しただろう。
あるいは使用人に任せ、自分はあとから結果だけを聞いたかもしれない。
だが今は違う。
「付き人は要らない」
夫はそう言って立ち上がった。
「二人で行く」
妻はその言葉を聞いて、ほんの少しだけ表情をやわらげた。
そして、外套を整えられ、車へ向かうまでの間に、ぽつりと呟いた。
「……なんだか」
夫が顔を向ける。
妻は少しだけ照れたように目を伏せ、それでも口元をゆるめた。
「デートみたい、ですね」
夫は一瞬、言葉を失う。
病院へ向かうのだ。
状況は決して軽くない。
それなのにそのひと言は、以前の妻なら言わなかった種類のものだった。
夫は思わず苦笑に近い微笑みを浮かべる。
「病院へ行くのに、か」
妻は小さく頷く。
「……二人で、出かけるから」
その言い方があまりにもいじらしく、夫の胸はやわらかく熱を持つ。
車が走り出す。
今度の車内は、以前とは違った。
完全な沈黙ではない。
妻は時折言葉に詰まりながらも、夫とちゃんと会話をしていた。
「気分はどうだ」
「……さっきより、少し」
「無理に話さなくていい」
妻は窓の外を見ながら、小さく微笑む。
「でも……一緒にいると、安心します」
そのひと言に、夫は握っていた妻の手へそっと力を返した。
「元気になったら」
夫は静かに言う。
「今度は改めて出かけよう。病院じゃなく、本当の意味で」
妻は夫を見る。
その目には、今や以前のような怯えはない。
「……はい」
そう返して微笑む顔が、ひどく穏やかだった。
けれど夫の胸の内は、完全にはやわらげなかった。
元気になった矢先の体調不良。
ここまでようやく戻ってきた妻が、また苦しむのではないか。
その不安が、病院へ着くまでずっと胸の奥に重く座っていた。
病院に着くと、すぐに検査へ通された。
待合の椅子に座る妻の顔色は、ひどく悪いというほどではない。
だが夫には、ほんの少しの変化すら大きく見える。
「大丈夫か」
「……はい」
妻は答えるが、その手は無意識に自分の服の裾を握っていた。
夫はその上へ、自分の手を重ねる。
検査は思ったより長く感じられた。
妻が診察室へ呼ばれ、夫は外で待った。
落ち着かない。
書類を前にしているときのように思考をまとめることもできない。
最悪の想像だけはしたくないのに、過去があるぶん、どうしても胸の奥で不安が膨らむ。
やがて再び呼ばれ、夫も中へ入る。
医師は穏やかな表情だった。
それを見た瞬間、ほんの少しだけ張りつめていたものが緩む。
それでも夫は恐る恐る問う。
「……どうなのですか」
医師は書類を見ながら、静かに言った。
「ご病気ではありません」
夫は息を止める。
「では……」
医師は顔を上げ、やわらかく微笑んだ。
「妊娠初期です」
そのひと言が、部屋の空気を一瞬止めた。
夫は意味が胸へ落ちるまで、数秒かかった。
病気ではない。
妊娠。
妻が。
自分たちの子を。
横を見ると、妻は目を大きく見開いていた。
そして次の瞬間、その顔にあふれるような喜びが浮かぶ。
今まで何度も、子どものことで傷ついてきた。
いないことで噂され、自分を責め、夫の冷たさの理由までそこに求めてしまっていた。
そんな妻が今、喜びを隠しきれずにいる。
「……本当に」
妻の声は震えていた。
「はい。まだ初期ですので、これから大事に経過を見ていきましょう」
医師が続ける説明も、夫には半分ほどしか耳に入らなかった。
驚きと、安堵と、信じがたさと、そしてあまりに大きな喜びとが一度に押し寄せて、言葉が出てこない。
妻がそっと夫を見る。
その目には涙がにじんでいた。
夫はようやく、掠れた声で言った。
「……そうか」
それだけだった。
それ以上はうまく言葉にならない。
妻は両手を胸元へ寄せ、唇を震わせる。
けれど表情は、今まで見たことがないほど明るかった。
「……旦那様」
名前を呼ばれて、夫はようやく現実の中へ戻る。
妻は笑っていた。
嬉しさを隠せない、まっすぐな笑顔だった。
その顔を見た瞬間、夫の胸の奥で、何かがあたたかく崩れる。
子どもなどどうでもいい、と自分は言った。
それは嘘ではなかった。
今も、妻がすべてだと思っている。
だがその妻が、こんなふうに喜んでいる。
ならばこの命もまた、自分にとってかけがえのないものになるのだと、その瞬間にわかった。
夫は言葉の代わりに、妻の手を強く握った。
妻も握り返す。
病院の静かな診察室で、二人はしばらくそのまま何も言えなかった。
けれど沈黙はもう苦しいものではない。
驚きと喜びでいっぱいになった、満ちた沈黙だった。




