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妻の心、夫の心

結婚記念日の夜を旧家で静かに過ごし、翌日、二人は帰る支度を整えていた。


玄関先には管理人が控えている。

この家ではいつも、必要以上に前へ出ず、けれど行き届いた手で迎え、見送ってくれる。

今回もまた、暖炉の火も、食事も、部屋の整え方も、どれも穏やかで過不足がなかった。


妻はクマのぬいぐるみを抱えたまま、居間から玄関へ向かう途中、ふと夫の方を見た。


「……次に来る時は」


夫はその声に足を止める。


妻はまだ、長く滑らかに話すことは少ない。

けれど今は、自分の望みを少しずつ言葉にするようになっていた。


「……私が、食事を準備したいです」


そのひと言に、夫の胸がやわらかく満たされる。


昔、小さな屋敷で、妻はよく食事を整えてくれた。

誕生日には少し手の込んだ料理を。

遅く帰った夜には温め直した食事を。

そして何でもない日にも、静かに、丁寧に。

夫にはたまらなく嬉しかった。


「……わかった」


夫はすぐに頷いた。


「次は、お前に頼む」


妻はその返事を聞いて、やわらかく微笑んだ。

無理に作ったものではない、今の妻らしい穏やかな笑顔だった。


玄関へ出る前、妻は管理人の方へ向き直る。


管理人は少し驚いたように姿勢を正した。

奥様が自分へ直接言葉を向けること自体、以前ならほとんどなかったからだろう。


妻は静かに頭を下げた。


「……ありがとうございました」


それから、もう一度きちんと会釈をする。


管理人も深く頭を下げ返した。


「こちらこそ、お越しいただきありがとうございました。

またいつでも、お待ちしております」


妻はその言葉に、小さく頷いた。


そうして二人は旧家をあとにする。


車へ向かうまでの短い道を、夫は妻と並んで歩いた。

指には、昨日互いにはめた結婚指輪。

その控えめな光が、冬の終わりの淡い日差しの中で静かに揺れている。


夫は歩きながら、ふと胸の内を見つめていた。


以前の自分なら、こんな光景にもどこか落ち着かなさを覚えたかもしれない。

妻が自分以外の誰かに微笑むこと。

男である管理人や、使用人たちへ礼を言うこと。

それらすべてに、醜い嫉妬を滲ませていたかもしれない。


実際、そうだった。

他の男に自然な笑顔を向けた、それだけで地下室へ追いやるほど、自分は狭く、幼く、激しく嫉妬していた。


けれど今は、違った。


妻が誰に対してもやさしくできるのは、この人の持つもともとの温かさだ。

そして、その温かさの中心が自分に向いていることを、ようやく信じられるようになってきた。


妻は愛し続けてくれる。


何をしても許される、という意味ではない。

むしろ、その愛を傷つけることがどれほど恐ろしいかを知った今だからこそ、以前のような身勝手な執着には戻れない。


ただ、静かに実感していた。

この人は、ここまで傷ついてなお、自分を愛し、戻ってきてくれたのだと。

そして今、こうして並んで歩き、次に来る時の食事のことまで考えてくれている。


その事実が、夫の中の嫉妬を少しずつ薄くしていた。


もちろん、独占したい気持ちが消えたわけではない。

けれどそれはもはや、相手を閉じ込めるためのものではなかった。

そばにいてほしい、笑っていてほしい、同じものを見ていたい。

そんな穏やかな願いへ変わりつつあった。


妻の心だけではない。


変わっていたのは、自分の心も同じだった。


冷酷でいなければ保てないと思っていた心が、今はこうして静かに満たされている。

共に眠り、共に食事をし、指輪をはめ、同じ家を出る。

そんな当たり前のことの中で、以前の自分が知らなかった穏やかさを知り始めていた。


車の前で、夫は妻のためにドアを開ける。


妻は乗り込む前に、もう一度だけ旧家を振り返った。

小さく、懐かしい家。

痛みの前に温もりがあった場所。

そして今では、過去に縋るためだけではなく、また帰ってこられる場所になった家。


妻は穏やかな顔でそれを見つめ、それから静かに車へ乗り込んだ。


夫もその隣へ座る。


車がゆっくりと動き出す。


窓の外で旧家が少しずつ遠ざかっていくのを見ながら、夫はそっと妻の手を取った。

妻は自然に握り返した。


その温度を感じながら、夫は思う。


心を壊したのは自分だった。

だが今、こうして少しずつ取り戻している時間の中で、自分自身もまた救われているのだと。


妻の心だけではなく、夫自身の心も、穏やかになりつつあった。

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