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誓いの指輪

結婚記念日当日の朝は、冬の名残をわずかに残しながらも、どこか春の気配を含んだ空気だった。


夫は妻とともに旧家へ向かうため、車に乗り込んだ。

運転手のほかは、後部座席の二人だけ。

以前なら、その道中はほとんど沈黙に包まれていただろう。

けれど今は違った。


妻は窓の外を見ながら、時折、夫の方へ視線を向ける。

腕の中には、もうすっかり馴染んだクマのぬいぐるみが抱えられていた。


夫はその横顔を見て、静かに口を開く。


「寒くないか」


妻は少しだけ夫の方を向く。


「……大丈夫です」


その返事に、夫の胸がやわらかく満たされる。

こうして会話が自然に交わせることが、まだ奇跡のように思えるのだ。


少しして、夫はまた言う。


「旧家の庭も、前より花が増えているかもしれない」


妻は窓の外から視線を戻し、小さく頷いた。


「……見たいです」


夫は思わず微笑む。


「着いたら、ゆっくり歩こう」


妻も、ほんのりとやわらかな顔になる。


移動のあいだにも、短いながら言葉が続く。

途切れ途切れではある。

それでも、以前のような張りつめた沈黙ではない。

二人の間に、ちゃんと温度のある言葉が行き交うようになっていた。


旧家へ着くと、管理人たちが最低限の挨拶だけをして下がった。

今日もこの家では、できるだけ二人だけで過ごしたかった。


家の中はきれいに整えられている。

暖炉には火が入り、食堂には控えめだがあたたかな祝いの支度がされていた。

派手な飾りはない。

けれど、今の二人にはそれで十分だった。


昼を穏やかに過ごしたあと、夕方近くになって、夫は妻を居間へ呼んだ。


窓の外にはやわらかな夕暮れが広がっている。

旧家特有の静かな空気の中で、妻は夫の向かいに腰を下ろした。


夫はしばらく言葉を探していた。

今さら言うには遅すぎることばかりが胸にある。

だが、今日はどうしても伝えたかった。


「……今日で、四年だ」


妻は静かに頷く。


夫は続ける。


「今まで、何もしてこなかった」


その声に、いつものような取り繕いはなかった。


「誕生日も、記念日も、お前はずっと俺を祝ってくれたのに……俺は何も返さなかった」


妻は夫を見つめている。

やわらかな顔だ。

責める色はない。

それがかえって、夫には胸に痛かった。


「それでも、お前はいてくれた」


夫は一度息をつき、それからはっきりと言った。


「ありがとう」


たったそのひと言が、思っていた以上に重かった。

今まで一度も、ちゃんと伝えてこなかった礼だったからだ。


「ここまで戻ってきてくれて、ありがとう。

……そばにいてくれて、ありがとう」


妻の睫毛が、かすかに揺れる。


夫はさらに続ける。


「これからも、一緒に歩いていきたい」


その言葉は静かだった。

けれど今まででいちばんまっすぐだった。


「お前と、これから先もずっとだ」


妻はすぐには答えなかった。


目を伏せ、両手を膝の上でそっと重ねる。

言葉を探しているのがわかる。

夫は急かさず、ただ待った。


やがて妻は、ゆっくりと口を開く。


「……わたし、も」


そこで少し詰まる。

それでも、夫は黙って見守る。


妻は小さく息を整え、言葉を継いだ。


「……うれしい、です」


その声はまだゆっくりで、途切れがちだった。

けれどひとつひとつが、ちゃんと妻の心から出ていた。


「……こうして、旦那様が……」


また少し言葉が止まる。

妻は夫を見て、かすかに微笑んだ。


「……そばに、いてくださって」


夫の胸が熱くなる。


妻は続ける。


「……これからも、一緒に……いたいです」


それだけ言うのにも、妻にはまだ少し力がいる。

けれど、その不器用な途切れ途切れの言葉が、夫にはどんな滑らかな告白よりも深く届いた。


夫は思わず微笑み、静かに頷いた。


「……ああ」


それから、夫は用意していた小さな箱を取り出した。


妻の目が、わずかに見開かれる。


「記念日の贈り物だ」


夫がそう言って箱を開けると、中には二つの指輪が収まっていた。

派手ではない。

細く、やわらかな光沢を持つ、日常に溶け込むような結婚指輪だった。


妻は息を呑んだように、その指輪を見つめる。


夫は少しだけ照れたように目を伏せる。


「もっと早く、渡すべきだったんだろうが」


そして、妻の方を見て言う。


「今からでも、お前とちゃんと夫婦でいたい」


妻の目元がじんわりと潤む。


夫は指輪を一つ取り上げ、妻の左手をそっと取った。

その指に、丁寧に指輪を通す。


ぴたりと収まる。


妻はその手元を見つめ、まるで信じられないものを見るように静かに息をついた。


そして夫もまた、もう一つの指輪を取って妻へ差し出す。


「……頼めるか」


妻は小さく頷く。

少し震える指で、夫の左手を取る。

そして、慎重に、やさしく指輪を通した。


夫はその感触に、胸の奥がいっぱいになるのを感じた。


二人で互いの手を見る。


同じ指輪。

同じ場所。

これまでなかったものが、今ようやくそこにある。


夫は自然に微笑んだ。


それを見て、妻もまた微笑む。


以前のような作った笑顔ではない。

心からほころぶ、やわらかな笑みだった。


その笑みを見た瞬間、夫は指輪を贈ってよかったと心から思った。


すると妻が、夫の手元と顔とを見比べるようにして、小さく言った。


「……指輪も、うれしいです」


夫は静かに聞く。


妻は続ける。


「でも……」


そこで少しだけ恥ずかしそうに目を伏せて、それからまた夫を見る。


「……旦那様の笑顔が、いちばん、うれしいです」


夫は言葉を失った。


指輪そのものではなく、自分の笑顔がうれしい。

そんなふうに言われるとは思ってもみなかった。


嬉しくて、痛くて、愛おしくて、胸が詰まる。


夫は妻の手をそっと包み込んだ。

新しい指輪が、二人の指で静かに触れ合う。


「……そうか」


それだけ言うのが、やっとだった。

けれどその声には、どうしようもない幸福が滲んでいた。


旧家の居間には、夕暮れのやわらかな光が満ちている。

過去の痛みも、後悔も、消えたわけではない。

それでも今、二人はようやく並んでそこに座っていた。


そして夫は、改めて思う。


これからも、この人と歩いていきたい。

今度こそ、祝うべき日を祝って。

同じ指輪をつけて。

同じ時間を重ねて。


妻は指輪のはまった自分の手を見つめ、それから夫を見て、もう一度静かに微笑んだ。

その笑顔は、夫にとってどんな贈り物よりも尊いものだった。

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