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妻からの誘い

数日後の休日、屋敷の中は穏やかな静けさに包まれていた。


本来なら休みの日だったが、夫は書斎で残っていた仕事を片づけていた。

旧家へ行く前に減らしたとはいえ、どうしても目を通さねばならぬ書類はある。

けれど以前のように、仕事だけに没頭する気にはなれなかった。

今は少しでも早く終わらせて、妻のところへ行きたいと思う自分がいる。


ペンを走らせながらも、意識のどこかでいつも妻の気配を探していた。


そのときだった。


書斎の扉の向こうに、ほんの小さな気配がある。


控えていた相馬が、それに先に気づいた。

廊下の方へ目を向け、わずかに表情をやわらげる。


扉は閉まりきっておらず、その隙間から、そっと中を覗き込む影が見えた。


妻だった。


クマのぬいぐるみを抱えたまま、書斎の様子をうかがっている。

まるで声をかけてよいものか迷っているような、少し遠慮がちな覗き方だった。


相馬はその姿を見て、胸の内で静かに息をつく。

少し前までの奥様なら、こうして自ら旦那様の書斎を覗きに来ることなどなかった。

書斎は夫の領域であり、呼ばれぬ限り立ち入るべきではないと、深く身に刻み込まれていたからだ。


それが今、こうして自分から来ている。


相馬は机に向かう夫へ静かに視線を送った。

そして、あえて言葉少なに促す。


「旦那様」


夫が顔を上げる。


相馬の目線を追った先に、扉の隙間からこちらを見ている妻がいた。


その瞬間、夫の表情がやわらぐ。


「……おい」


低く声をかけると、妻は少しだけ肩を揺らした。

見つかった、というように。

けれど逃げることはせず、そのまま静かに扉のところに立っている。


夫は机から立ち上がるでもなく、やさしく続けた。


「どうした」


妻はクマのぬいぐるみを胸元へ抱えたまま、少しだけためらった。

照れているのがわかる。

以前のような怯えではない。

どう言えばよいか考えている、そんなためらいだった。


やがて、妻は小さく口を開く。


「……お仕事が終わったら」


そこで一度言葉を切る。

夫は黙って待つ。


妻は夫を見て、頬にほんのかすかな熱を浮かべながら続けた。


「一緒に、お庭を散歩しませんか」


そのひと言に、夫の胸の奥がふわりと満ちた。


誘われた。


しかも妻の方から。

庭を、一緒に歩こうと。


少し前までの妻なら、夫の機嫌をうかがい、望みを口にすることすら控えていた。

何かをしたい、どこかへ行きたい、そうした思いを表へ出すこと自体が難しかった。


けれど今の妻は違う。

まだ言葉は以前ほど滑らかではない。

長い会話も得意ではない。

それでも、日に日に、自分の思いを口にするようになっていた。


旧家へ行きたい。

ここにいたい。

一緒がいい。

欲しい。

そして今、一緒に散歩しないか、と。


その小さな変化のひとつひとつが、夫にはかけがえのないものだった。


夫は自然に微笑んだ。


幸せだった。


大げさな出来事ではない。

ただ、妻が自分から誘ってくれる。

それだけで胸があたたかく満たされる。


「もちろんだ」


夫はそう言ってから、机の上の書類へ目をやる。


「すぐに片づける」


そして妻を見つめ、穏やかに言った。


「待っていてくれ」


妻は静かに頷き、それからきちんと返した。


「……はい」


その返事がまた、夫にはうれしかった。


妻は書斎の中へそっと入ってきた。

以前のような遠慮が完全に消えたわけではないが、もうここは入ってはいけない場所だという硬さは薄れている。


窓際には、光のよく入る椅子がひとつ置かれていた。

妻はそこまで歩いていき、クマのぬいぐるみを抱えたまま、静かに腰掛ける。


窓の外には冬の終わりの庭が見える。

花はまだ多くない。

けれど、春を待つやわらかな空気が少しずつそこに混じり始めていた。


妻はクマを抱いて座り、時折夫の方へ目を向ける。

その表情は穏やかで、以前のような作りものの笑みではなく、自然なやわらかさを帯びている。


夫は仕事へ視線を戻しながらも、胸の内ではその存在をずっと感じていた。

書斎に妻がいる。

自分を待ってくれている。

それだけで、この部屋の空気までやわらいで感じられる。


相馬は少し離れた位置で、その様子を静かに見ていた。


若い主人が冷たさでしか感情を表せなかった頃。

妻が機嫌を損ねぬためだけに微笑み続けていた頃。

この書斎はもっと張りつめた場所だった。


今は違う。


窓際の椅子に、クマのぬいぐるみを抱えた妻が静かに座っている。

夫はその姿を気にしながらも、急いで仕事を片づけようとしている。

そして、そのあいだに流れる空気には、ようやく夫婦らしい温度があった。


相馬は深く胸の内で安堵した。


まだすべてが元通りになったわけではない。

傷は消えない。

失われた時間も戻らない。


それでも、確かにここまで来たのだと、今の光景が教えていた。


やがて夫は最後の書類へ目を通し、ペンを置いた。


窓際には、待っている妻がいる。


その姿を見ながら、夫はまた静かに微笑む。

休日の書斎で、自分を待つ妻がいることが、これほど幸福だとは、かつての自分は知らなかった。

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