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愛しているのは

それからも、妻は少しずつ元気になっていった。


以前のように長く話せるわけではない。

ふいに無表情へ戻る時間もまだある。

それでも、短い会話ができるようになった。

朝に「おはようございます」と言い、夜に「おやすみなさい」と返す。

夫が仕事の合間に顔を見せれば、「お疲れ様です」と言える日もある。


それだけのことが、今の夫には何より嬉しかった。


妻は屋敷の中も、少しずつ歩くようになっていた。

まだ一人ではない。付き添いのメイドと共に、回廊をゆっくり進み、庭を眺め、窓辺で足を止める。

けれど閉ざされた部屋の中だけで過ごしていた頃に比べれば、それは確かな回復だった。


そしてその腕の中には、たいていあのクマのぬいぐるみがあった。


旧家の近くの街で買った、小さな茶色のクマ。

妻はそれを大事そうに抱えていることが多かった。

まるで、自分の心がようやく手にした安心を、目に見える形で抱きしめているようだった。


ある日の午後。


妻は付き添いのメイドとともに、静かな廊下を歩いていた。

腕にはクマのぬいぐるみ。

夫の書斎の前を通りかかったときだった。


中から声が聞こえた。


最初は、誰かが報告でもしているのかと思った。

けれど次の瞬間、妻の足が止まる。


若い女の声だった。


「旦那様、私……旦那様をお支えしたいのです」


付き添いのメイドもはっとする。

書斎の扉は完全には閉じ切られておらず、声が廊下へ漏れていた。


妻は無言のまま立ち尽くす。

腕の中のクマを抱く手が、わずかに強くなる。


中では、若いメイドが続けていた。


「奥様の分まで、お支えできます。旦那様に必要とされることなら、何でも……」


その声には、緊張と、どこか思い詰めた熱が混じっていた。


付き添いのメイドは青ざめる。

止めようにも、今さら扉を叩くのはかえって騒ぎになる。

それに何より、妻の前でこの言葉を聞かせてしまっていることが、もう取り返しのつかぬことのように思えた。


書斎の中の若いメイドは、さらに踏み込んで言った。


「もし……世継ぎが必要なのでしたら、その役目もお引き受けいたします」


そのひと言が落ちた瞬間だった。


ぽとり、と小さな音がした。


妻の腕から、クマのぬいぐるみが落ちたのだ。


付き添いのメイドが息を呑み、慌ててしゃがみこむ。


「奥様……!」


妻は動かなかった。

無表情ではある。

だがその顔色がわずかに変わるのを、付き添いのメイドは見た。

あまりに静かで、だからこそ余計に痛々しい揺らぎだった。


そのとき、中から夫の声が響いた。


「……今、何と言った」


低い。

だが冷えきっている。

以前のような感情を抑え込んだ冷酷さではない。

怒りを静かに切り出す刃のような声だった。


若いメイドの息を呑む気配がする。

それでもまだ、どこかで望みを捨てきれぬように言葉を重ねようとした。


「旦那様、私はただ――」


「黙れ」


その一喝で、廊下の空気が凍りついた。


夫は続ける。

今度は、迷いのない、はっきりとした声音だった。


「お前は何を勘違いしている」


若いメイドはもう声も出せないらしい。


「俺が愛しているのは妻だけだ」


そのひと言が、廊下までまっすぐ届いた。


妻の睫毛が、かすかに揺れる。


夫の声はさらに低く、明確だった。


「世継ぎだと? 支えるだと? ふざけるな」


そこで短い間が落ちる。

だがその沈黙のあとに来た言葉は、残酷なほどきっぱりしていた。


「出て行け」


若いメイドが小さく何かを言いかけたのを、夫は容赦なく断った。


「今日限りで解雇だ。この屋敷から去れ」


その宣告に、付き添いのメイドは顔を伏せるしかなかった。

中では若いメイドが泣き崩れそうな気配を見せたが、夫の声には一片の揺らぎもない。


「二度と妻の前に顔を出すな」


その言葉が終わるのとほぼ同時に、扉が開いた。


夫が書斎から出てくる。


そして廊下に立つ妻を見た瞬間、夫の表情が変わった。

中で告白していた女に向けていた冷たさとはまるで違う、はっとした焦りと痛みが、その目に宿る。


視線が床へ落ちる。

落ちたクマのぬいぐるみ。

しゃがみこんだ付き添いのメイド。

そして、その前で静かに立つ妻。


夫はすぐに状況を理解した。


聞かれていたのだと。


夫は廊下へ一歩出て、付き添いのメイドへ低く言う。


「下がれ」


「は、はい」


メイドは急いでぬいぐるみを拾い上げたが、夫がそれを受け取り、自ら妻の前へ進んだ。


「……気にすることはない」


声はやわらかかった。

だがその奥には、妻にこんな言葉を聞かせてしまった自分への怒りが混じっている。


妻は夫を見る。

無表情だ。

けれど、その目は空ではなかった。


夫は妻の前に立ち、はっきりと続ける。


「俺が愛しているのは、お前だけだ」


それは、先ほど書斎の中で若いメイドに言い切った言葉だった。

けれど今、妻に向けて言うその響きはまるで違った。

拒絶のためではなく、安心させるための、まっすぐな告白だった。


「それ以外は、何一つ要らない」


妻の目元が、かすかに揺れる。


次の瞬間、涙が静かに溢れた。


声はない。

けれど今度の涙は、以前のような無表情のまま零れるだけのものではなかった。

その唇には、たしかに微笑みがあった。


穏やかで、震えるような微笑みだった。


夫はその顔を見て、胸がいっぱいになる。


妻は涙を流しながら、夫を見つめる。

そして、小さく言った。


「……私も、です」


夫の喉が詰まる。


私も。


それだけで意味は十分すぎるほどわかる。

けれど妻はそこで終わらなかった。


少しだけ息を整えるように間を置いてから、ゆっくり、はっきりと続ける。


「……愛しています」


夫はもう何も言えなかった。


ただ目の前の妻を見つめる。

この屋敷で、地下室で、旧家で、雪の日で、星空の下で、少しずつ戻ってきたものが、今ここで確かな言葉になった。


愛しています。


あの夜、旧家の庭で聞いた言葉とはまた違う。

今度は、今の屋敷の廊下で、他の女をきっぱり退けた直後に、妻が自分の意思で返してくれた言葉だった。


夫は抱きしめたくなる衝動を抑えながら、まず手の中のクマのぬいぐるみを妻へ差し出した。


「……ほら」


妻は涙の残る目でそれを見て、両手でそっと受け取る。


そして大事そうに胸へ抱えた。


その仕草があまりにも妻らしく、あまりにもいじらしくて、夫はようやく一歩近づいた。

今度はゆっくりと、その肩へ手を置く。


妻はクマを抱いたまま、穏やかに夫を見上げていた。


廊下にはもう、余計な声は何もない。

あるのは、少しずつ取り戻してきた二人の時間だけだった。


そして夫は改めて思う。


この人だけでいい。

最初からずっと、そうだったのだと。

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