妻の淹れるお茶
それから、しばらく穏やかな日が続いた。
劇的にすべてが元に戻ったわけではない。
妻はいまだ、以前のように滑らかに話すことは少ないし、ふとした瞬間にはまた無表情へ戻ることもある。
静かなまま窓の外を見ている時間もある。
言葉が続かず、ひとことだけで終わる日もある。
けれど、それでも確かに良くなっていた。
発する言葉は少しずつ増えている。
頷きだけではなく、短くても自分の意思を口にするようになった。
目が合えば穏やかに返し、微笑むこともある。
そして何より、夫のそばにいることを、もう怯えではなく安心として受け取るようになっていた。
屋敷の中の空気も、少しずつ変わっていた。
使用人たちは以前より静かに、そして慎重に妻を見守るようになった。
誰も、もう軽々しく奥様について口にしない。
相馬の目配りもあるのだろう。
だがそれだけではなく、妻の変化を目の当たりにして、皆どこか自然に息を潜めるようになっていた。
ある日の午後のことだった。
妻は自室で静かに過ごしていた。
付き添いのメイドが、いつものようにお茶を運んでくる。
「奥様、お茶でございます」
銀の盆を小卓へ置こうとした、そのときだった。
妻がふいに口を開く。
「……お茶を、淹れたいです」
メイドは一瞬、動きを止めた。
それは、思ってもみない申し出だった。
妻が何かを「したい」と口にすること自体、まだ多くはない。
何かを自ら準備したいという形で出てきたことに、メイドは驚いたのだろう。
「奥様、お茶でございましたら、私どもでご用意いたします」
当然のようにそう返す。
今の屋敷では、そうするのが普通だった。
お茶はメイドが淹れ、運ぶものだ。
特に妻に手を煩わせることではない。
だが妻は、静かに、もう一度言った。
「……旦那様に、お茶を淹れたいです」
メイドは息を呑んだ。
それだけだった。
長い説明もない。
強い口調でもない。
けれど、そのひと言の中に、はっきりとした意思があった。
旦那様に。
お茶を淹れたい。
昔、小さな屋敷でメイドだった頃なら、当たり前のようにしていたことだ。
仕事で疲れて戻った夫へ、黙って湯を沸かし、茶を淹れ、書斎へ運んでいた。
その頃の記憶が、今の妻の中に少しずつ戻り始めているのかもしれないと、メイドは思った。
しばらく迷ったあと、やがてやさしく言う。
「……では、ご一緒に淹れましょう」
妻はその言葉を聞いて、ほんの少しだけ目をやわらげた。
それから二人で厨房へ向かう。
妻が一人で立ち働くには、まだ不安がある。
だからメイドはすぐ隣に付き添い、道具の場所をさりげなく示しながら、必要なところだけ手を貸した。
茶器を選ぶ。
湯を整える。
茶葉を量る。
妻の動きは決して素早くはない。
けれど、不思議なほど自然だった。
指先が覚えているのだろう。
以前、何度も何度も繰り返してきた所作が、身体の奥から静かに浮かび上がってくるようだった。
メイドは邪魔をしないよう気をつけながら、その様子を見守る。
やがて湯気の立つお茶が整う。
香りはやわらかく、落ち着いたものだった。
「旦那様のところへお持ちいたしましょう」
メイドが問うと、妻は静かに頷いた。
盆を持つ手つきは慎重だった。
だが震えてはいない。
それを見て、メイドは横でそっと支えながら、書斎まで付き添った。
扉の前まで来ると、メイドが控えめに声をかける。
「旦那様。奥様でございます」
中から、夫の低い声が返る。
「入れ」
扉が開く。
書斎の中では、夫が机に向かって書類を見ていた。
顔を上げたその目が、入ってきた妻を見た瞬間、わずかに見開かれる。
妻は盆を持って立っていた。
自分から。
書斎へ。
お茶を運んできた。
その姿が、夫にとってどれほど大きな意味を持つか、説明するまでもなかった。
妻は机の前までゆっくり歩く。
メイドは少し後ろへ下がり、必要以上に気配を立てないようにしている。
妻は夫を見て、静かに口を開いた。
「……旦那様」
その呼びかけだけで、夫の胸はすでに熱くなっていた。
そして妻は、少し間を置いてから、続ける。
「……お疲れ様です」
その声はまだ小さい。
滑らかでもない。
けれど一言一言を大事に確かめるように、きちんとした響きだった。
そうして、妻は夫へお茶を差し出す。
あまりにも懐かしい光景だった。
まだ旧家で暮らしていた頃。
書斎に籠もる自分のもとへ、妻がこうしてお茶を運び、「お疲れ様です」と言ってくれた日々。
それを思い出した瞬間、夫は胸の奥がいっぱいになり、しばらく言葉が出なかった。
ようやく手を伸ばし、茶器を受け取る。
その指先が少しだけ震えたのは、自分でも隠せなかった。
「……ありがとう」
声は低く、やわらかかった。
そこにはただ礼を言う以上の感情が込められていた。
嬉しさ。
懐かしさ。
そして、妻がここまで戻ってきてくれたことへの、どうしようもない安堵。
夫は自然に微笑んでいた。
すると妻も、それを見て、静かに微笑んだ。
ほんのやわらかな笑みだった。
けれど以前のような無理な笑みではない。
夫の「ありがとう」を受け取って、自然に浮かんだものだった。
その微笑みを見たとき、夫は改めて思う。
少しずつだ。
決して一度にではない。
けれど妻は、確かに戻ってきている。
言葉も。
表情も。
そして、自分から何かをしたいと思う心も。
書斎の窓から午後の光が差し込む中、夫は妻の淹れたお茶の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
それは今の屋敷のどんな豪奢なもてなしよりも、彼にとって深く、あたたかいものだった。




