愛しさと幸福
朝、目を覚ますと、妻もすでに起きていた。
寝室にはやわらかな朝の光が差し込み、昨夜の静けさをそのまま引き継いだような穏やかさがあった。
妻は寝台の中でこちらを向いている。
クマのぬいぐるみは枕元に置かれ、その顔には、以前のような空虚さではない、静かなぬくもりが宿っていた。
夫はその視線を受けて、胸の奥がやわらかく熱くなるのを感じた。
何か言おうとする。
まずは、おはよう、と。
けれど夫が口を開くより先に、妻の唇が静かに動いた。
「……おはようございます」
夫は一瞬、息を止めた。
おはようございます。
それはもう、昨夜の名残でも、かすれたひと言でもなかった。
きちんとした、自然な朝の挨拶だった。
昔、妻がメイドだった頃、毎朝変わらず口にしていたのと同じ響き。
嬉しさと、信じ難さと、胸の奥を強く揺さぶられるような動揺が一度に押し寄せる。
それでも夫はどうにか微笑みを保ち、低く返した。
「……おはよう」
そのひと言を返すだけで、声が少し掠れた。
妻はそれを聞いて、かすかに目をやわらげる。
しばらく二人は何も言わず、朝の光の中で互いを見ていた。
その沈黙は、以前のような冷たい空白ではなかった。
言葉がなくても苦しくない、やわらかな静けさだった。
やがて夫は静かに身を起こし、妻の顔を見ながら言った。
「今日から仕事がある」
本当は、旧家から戻った今も、できることなら一日中そばにいたかった。
けれど最低限、片づけなければならないものはある。
「だが、合間を見て会いに行く」
確認するように、そして約束するように言う。
「何度でも行く」
妻はそれを聞いて、ほんの少し、自然に微笑んだ。
それはもう、壊れそうにかすかなものではなかった。
まだ控えめではある。
けれどたしかに、昔の妻へと続いている微笑みだった。
夫はその表情を見て、また胸の奥が満たされる。
朝食は、夫の決意どおり、一緒に取った。
以前のように妻を立たせたままにはしない。
同じ席に着かせ、同じ朝の時間を過ごす。
それだけのことが、夫には深く意味のあることだった。
妻はまだ多くは話さなかったが、無理もしていなかった。
少しずつ食べ、時折夫の方へ視線を向ける。
そのひとつひとつが、以前の冷え切った朝食とはまるで違っていた。
食事のあと、夫は妻を部屋まで送った。
廊下を並んで歩く。
妻の歩調に合わせ、急がず、静かに。
部屋の前まで来ると、夫は扉を開け、妻が中へ入るのを見届けた。
それから低く言う。
「また会いに来る」
以前なら、それは許可でも命令でもなく、ただ当然のように自分だけの都合で決まっていたはずだった。
今は違う。
ちゃんと伝えたいと思った。
また来ることを。
離れても、すぐに戻ることを。
妻は静かにその言葉を聞いていた。
表情は穏やかだ。
夫は小さく頷き、それから仕事へ戻るために踵を返した。
背を向け、数歩歩き出す。
すると次の瞬間、背中にぬくもりが触れた。
夫ははっと足を止める。
妻が後ろから抱きしめていた。
細い腕が、けれどためらいなく夫の背へ回されている。
その温度が、服越しにまっすぐ伝わってくる。
夫の胸が強く鳴る。
あまりにも突然で、しばらく動けなかった。
昔の妻なら、こんなふうに自分から触れることはほとんどなかった。
今の妻ならなおさら、予想もしていなかった。
ゆっくりと振り返る。
妻は夫を見上げていた。
穏やかで、やわらかい目だった。
そのまま妻は、何も言わず一歩近づき、夫の顔へそっと口づけをした。
一瞬のことだった。
強くではない。
ただ静かに、確かな意思をもって。
夫は完全に言葉を失った。
驚きで息が詰まり、何か言おうとしても声にならない。
目の前の妻は、そのあとも慌てた様子はなく、静かに微笑んでいる。
その微笑みがあまりにも自然で、穏やかで、夫はますます動揺した。
ようやく両腕を伸ばし、妻を抱きしめる。
今度は驚きと愛しさと、どうしようもない幸福とが一度に溢れていた。
腕の中の妻は、もう以前のように硬くも無反応でもない。
静かにそこにいて、夫の抱擁を受け入れている。
夫は掠れた声で言った。
「……また、すぐに会いに来る」
それは約束だった。
今すぐ戻ってきたいほどの気持ちを、どうにか抑えて絞り出した言葉だった。
妻は夫の胸元に寄り添ったまま、やわらかく息をつく。
言葉は重ねない。
けれどその穏やかな表情が、十分すぎるほどの返事だった。
夫はそのままもう一度だけ強く抱きしめ、ようやく名残を断ち切るように身体を離した。
仕事へ向かわなければならない。
それでも今朝のこの出来事は、一日中、いやそれ以上、胸の奥であたたかく灯り続けるだろうとわかった。
部屋を出る直前、夫は振り返る。
妻はまだそこに立っていた。
クマのぬいぐるみのある部屋で、静かに、穏やかに微笑んでいる。
その姿を見て、夫もまた自然に微笑み返した。
ほんの少し前まで、想像もできなかった朝だった。




